2010年3月14日日曜日

著作集『学校的日常の彼方へ』


著作集

『学校的日常の彼方へ』

石田一

少しずついろんな意味が解りかけてるけど

決して授業で教わったことなんかじゃない

口うるさい大人達のルーズな生活に縛られても

素敵な夢を忘れやしないよ

人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば

すみからすみはいつくばり 強く生きなきゃと思うんだ

ちっぽけな俺の心に 空っ風が吹いてくる

歩道橋の上 振り返り 焼けつくような夕陽が

今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ

Seventeens map

      尾崎豊「十七歳の地図」



はじめに

 今日、友人の見栄春代(無論ペンネーム)君に会い、「教室に一人残されている悲しい光景」というテーマでイラストを描いてもらった。それが本書の表紙である。タイトルを『孤空』(こくう)と言う。

 私が本書で示したいのは、要はこのイラストの内容である。

 教室の向こうには何があるのであろうか。

 しかし少年はその方向を見ていない。

 自由な雲も見ていない。

 彼はイラストをこのように解題してくれた。いつまでもいつまでも、一人教室に取り残される少年の「悲哀」を示している(それは「たま」の『学校にまにあわない』の世界でもある)。

 イリイチは『脱学校の社会』をはじめとする諸著作で、「学校化」の弊害を説いていた。

「本来、自律的・自発的・能動的におこなわれるはずの学びが、学校によって他律的・強制的・受動的にさせられる行為に転化していく状態」である。そして彼は、このような学びの他律化・強制化・受動化を自明視する社会を「学校化社会」と呼んだ。(田中智志『教育学がわかる事典』日本実業出版社、200394頁)

 学校のもつ「気持ち悪さ」ともいうべきものが、イリイチの『脱学校の社会』にはこめられている。もともと、私が大学で脱学校論(あるいは非学校論)やフリースクールをテーマに研究を始めたのも、この「気持ち悪さ」を突き止めるためであった。

 本書は、私がブログで書き綴ったモノローグ集である。卒論で「脱学校論」を扱った関係上、どんな記述にも「脱学校論」的な影響を受けている。そんな点を軽く意識した上で、読んでいただければ望外の喜びである。

第1章

「脱学校論」的 随想

「制度」としての「学校」の不可思議さ

 もとから、私の教育学的主張は学校外の学び舎をさらに普及させることである。例えばフリースクール、例えば「子どもの居場所」。それ故、私はフリースクール全国ネットワークというNPO団体のボランティアを週1でやらせていただいている。

 私が教育実習で行った八千代中学校はド田舎の中学校。ヘルメット・タスキをつけ、生徒は自転車で通学する。逸脱する者はあまりいない。生徒をしばる教員の圧力の強い所であった。

 こういうことがあった。男子生徒更衣室から制汗スプレーがみつかり、担任が生徒に「こんなものを持ってきてはいけないだろう」と叱っていた。そのシーンを私は少し離れた所から黙ってみていたのだが、非常に不思議な気持ちになった。その教員の話を聞いていても、「どうして制汗スプレーを持ってきてはいけないのか」という理由の説明にはなっていない。理不尽な叱り方である。おそらく、その教員の側にしてみれば本当に「こんなものを持ってきてはいけない」のであろう。中学生だった頃には存在しないものだったのだから。けれど時代は日々進む。現在、高校や大学で運動をする人たちの間で制汗スプレーをしないことの方が「お前、それはないだろう」と言われることが多い。自分の体臭を気にしないことは《非礼》であると伝わってしまうのだ。

 まさに社会学でいう「権力」関係が働いていたことに気づく。「隠れたカリキュラム」として、中学生は教員権力に従うということを内面化されていくのだ。

 教育実習、気づけば終っていた。「学校」や「教師」という存在が生徒を支配する関係が存在していることに改めて気づき、「ああ、やはり学校外の学び舎がさらに普及することが必要なんだな」という考えに至った。八千代中学校の「不登校」・「教室外登校」の生徒数は、6名(総生徒数208名)である。およそ3%の生徒は「学校があわない」ということを無言のうちに示している。

 「学校」や「教師」が大好きな生徒がいるのと同様に、それらが大嫌いな生徒がいるのは当然である。その子に対し、無理やりでも「学校へ来い」と言い続けるのは酷であろう。学校が「学校」である限り、どれだけ努力をしようとも「学校」を好きになれない生徒は必ずいる。ならば学校外の学び舎(フリースクールなど)をさらに普及させることが必要だ[1]

 しかし、「学校」の持つ「気持ち悪さ」を教育実習のなかで幾つも感じながらも、生徒と触れ合うことはものすごく楽しかった。S君という生徒と、放課後の無人の図書室で日本の歴史のロマンを語り合ったことは未だに鮮明に頭に残っている。

 「学校」という制度のなかで、いかに生徒と人間的つながりを築けるか。これが大切なのではないだろうか。

[1] もう一つの考え方として、ボーイスカウトなどの「ノンフォーマル教育」活動を押し進め、学校外にも子どもが育つ場所を提供するというものがある。私の実習校でも、ボーイスカウトや地域のサッカークラブに参加している生徒が一定数いた。

「自分に合った仕事」という幻想

 友人が就職活動を行っている。その際、リクナビやマイナビなどに希望する条件を登録し、そこから送られてくる情報をもとに行動を行っている。

 「自分に合った仕事を探そう」と、最近の就職関連の本には登場する。「自己分析」がやたら騒がれ、「一生の大半は仕事をするのだから、自分に最もあったものを選ばないと不幸になる」とすら語るものもある。

 しかし、本当だろうか? 自分という個が先にあって、その個に合う仕事を探す。このプロセスは真理なのだろうか。

 かつて、仕事は「一人前になる」ために行うものだった。「自分に合った仕事を探す」のではなく、仕事を通じて自分を作り上げる、というプロセスをとっていたのだ。

 私の家は、代々職人の家系であったらしい。祖父の代までは建具屋さんをしていた。建具屋とはたんすなどの家具を作る人のことをいう。そのため家の納屋にはカンナや金槌などがたくさん散らばっている。

 木にカンナをかける。なかなかうまく出来ない。力を均等にし、慎重にカンナをかけていく。この作業を繰り返し、きれいにカンナがけができるようになったとき、少し「一人前になる」ことが出来たのであろう。仕事を通しての人間成長があったのだ。

 仕事を通じて、かつては人生における真理を学んでもいた。先のカンナがけ。カンナをかけるだけでなく、「ゆっくりと慎重に行うこと」「練習をすれば必ず技術は習得できるようになるということ」すら学ぶことができていた。表面上は単調にカンナがけをしているようでも、作業を通じて人生の真理を学んでいた。

 いまは個があって、「自分に合った仕事を探す」というプロセスをとっているが、かつてはそうではないのが一般的だった。仕事は何でもいい、けれどその仕事を通じて「自分」を作り上げろ、というメッセージが社会に広まっていた。

 就職活動に行き詰っている友人にこの話をすると、非常に喜ばれたのが印象的だ。いまの就職活動は何か誤っている点があるのではないだろうか。

尾崎豊にいまさらハマる。

 脱学校論(非学校論)が私の専門。卒論はイリイチの『脱学校の社会』で書いた。最近は脱学校論の理論を音楽の面で表現しているものはないか、と探している。論文やエッセイでは読むのに時間がかかる。けれど音楽ならばすぐに理解が出来る(しかも情動的に)。脱学校的考え方を人々の間に流布させる方法として、現存する音楽を活用する形が最も適しているのではないか。

 そんな考えのもと、脱学校論的発想を表現している音楽として「たま」の曲に出会った。彼らの音楽については今までもこのブログで書いてきた。次は誰の曲にしようか。

 カラオケで先輩が「15の夜」を歌うのを聞いたのが、私と尾崎豊との出会いである。聞いたとき、「ああ、ここまで学校への嫌悪感を表した曲があるのか」と感銘を受けた。その記憶を思い出し、尾崎豊の曲をもとに考えていく事にした。

 尾崎は「たま」以上に多くの人々に聞かれてきた。それはよくいわれるように「青春の叫び」を表現した音楽だったから、という理由だけではないように思える。むしろ「学校的なるもの」への人々の不満を、尾崎が代弁したからと言えるのではないだろうか。

 今日読んだ橋本努『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書、2007)には、「197080年代の自由論」の象徴として、尾崎豊の一連の作品が紹介されている。

尾崎豊が一五歳になった一九八〇年といえば、先に触れたように、中学校では校内暴力が急増し、翌年にはそのピークを迎えていた。前年の七九年には、「偏差値教育」の象徴である「共通一次試験」が導入され、中学生の生活は、極度に縛りつけられていた。中学生の「生徒手帳」には、髪型や服装、あるいは先生や他の生徒に対する態度まで、事細かな規律が記されていた。(138139頁)

 実際、この時代は校内暴力を押さえるための管理教育が多くなった時である。教育学の世界では、80年代が校内暴力管理教育、90年代がいじめ・学級崩壊が騒がれる時代であったとよく説明されている。つまり、尾崎は学校が最も生徒に対し権力を持った時代(管理教育の時代)に生きていたからこそ、はっきりと「学校的なるもの」への気持ち悪さ/嫌悪感を表現できたのではないだろうか。

「教育のための社会」とは?

 「教育のための社会」(ロバート・サーマン)という概念が、いまひとつ分からない。

 大学2年生のころの認識では、「教育的でないものを排除した社会」と考えていたが、どうもそれとは違うようだ。

 大学二年の時の認識を検討しよう。「教育的でないもの」とは、たとえば反道徳的・退廃的・反社会的な存在のことを意味する。それらを排斥するとは、簡単に言うと「異質・異様な他者」を排斥するである。ホームレスの人、在日の人、風俗産業従事者、外国人労働者、犯罪経験者を子どものそばから追いやることである。「異質・異様な他者」のいない社会は確かに安全で、暮らしやすく、平和な生活が待っていることだろう。

 いい環境を求めて、都心から郊外に引っ越すのが高所得者の常であるが、郊外には「異質・異様な他者」はいなくなる。親たちはこのことを「教育的にいい環境である」と認識する。安全・快適・平穏・静寂な生活が繰り広げられるからだ。さらに高所得者はゲーテッドコミュニティー(要塞都市)に住む。けれど、このことは子どもにとって本当に喜ばしいことなのか?

 良い社会とは正統的教育コース(高校普通科大学大企業or公務員)以外の教育コースの存在を許容した社会である。反・正統的教育コース(高校中退、ニート、中卒就労、高卒就労など)を歩んだ人間は、正統的教育コースに生きる人間にとって、非常に異質な存在として認識される。時には「ああならないようにしよう」という反面教師として、時には「気楽に過ごせていいよな」という呪詛の対象として。

 「異質・異様な他者」を排斥する環境で育つとき、子どもは大人社会の排斥の風潮を内面化する。それが表層に表れ始めた時、大人以上に「異質・異様な他者」を排斥するようになる。昔からホームレスへの暴行事件やチマチョゴリを切り裂く事件が起きていたが、それらは子どもの「異質・異様な他者」排斥が行動として表れた事例である。

 

 結論として言おう。「教育のための社会」を、「教育的でないもの、反・教育的なものを排除した社会」という認識の仕方は誤りである。「異質・異様な他者」を排斥することにつながるからだ。

 ということは、「教育のための社会」とは逆説的ながら、反・教育的なものを包摂した社会ということができる。教育のための社会とは、「いい教育のために~~しなければならない」という言葉が存在しない社会、つまり「異質・異様な他者」や反・教育的なものすら受け入れる社会であるといえるかもしれない。

追記

 「異質・異様な他者」に非寛容な社会は、内部に住む人間にも非寛容である。絶えず同調性を強いるためである。内藤朝雄は「中間集団全体主義」という概念を提唱しているが、まさにそういった一種の全体主義が広まる。そうなったとき、集団内部での排斥者は「中間集団全体主義」を内面化しているため外に出ることを「してはいけないことだ」と認識する。結果、とことんまで追い詰められ精神を病むか自殺をしてしまう(ひどい時は殺傷事件を起こす)。

再記

 岩崎弘昭の概念を使うなら、「教育のための社会」とは〈教育〉を排斥し、中世以来の「共同体の中に埋め込まれた学び」を復権させる行為であるといえるであろう。

教育における「悪」の重要性

 『キーワード現代の教育学』(東京大学出版会、2009)という本を読んでいる。そこに「悪―悪の体験と自己変容」という章がある。ここでいう悪とは〈通常、悪が論じられているように「善」や「正義」の概念の反対の意味ではなく、理性による計算を破壊することそれ自体が目的であるような思考の体験を指す〉(164頁)。筆者の矢野智司は「悪」を「冒険」や「死」・「性愛」・「快楽」などとして認識している。これらは子どもが親に隠れて触れるものであり、予め教育プログラムに規定できないものだ。偶然性というものがつきまとう。

 前にわたしは「教育のための社会」とは?という文章を書いた。そこの結論を、次のように私はまとめた。

「教育のための社会」を、「教育的でないもの、反・教育的なものを排除した社会」という認識の仕方は誤りである。「異質・異様な他者」を排斥することにつながるからだ。

 ということは、「教育のための社会」とは逆説的ながら、反・教育的なものを包摂した社会ということができる。教育のための社会とは、「いい教育のために~~しなければならない」という言葉が存在しない社会、つまり「異質・異様な他者」や反・教育的なものすら受け入れる社会であるといえるかもしれない。

 ここに書いた「反・教育的なもの」とはまさに「悪」のことだろう。「悪」が「悪」である由縁は教育プログラムに設定できないところにある。子どもの冒険は、子どもが勝手におこなうから冒険なのであり、親が「冒険してきなさい」といって行わせることができないものなのだ。

 教育における「悪」の存在の重要性とは、教育者が被教育者(=子ども)の全てを担うことができない認識をするということと同義である。いくら親といえども、子どものすべてを知ることは出来ない。他人なのだから。まして教員が子どもの全てを認識することはさらに不可能だ。であるならば、教育者は被教育者の全てを見ることを諦める必要がある。「悪」の存在の重要性は、教育者がある種の「全てを知ることへの〈あきらめ〉」を知らしめてくれるところにあるのではないか。

追記

 「悪」を「ワル」と読むと、本章の内容が理解しやすくなるであろう。 「子どもに合わせた教育」論。

 子どもは人格の完成者ではない。ゆえに「子どもに合わせた教育」を文字通り実践してしまう事は、「合成の誤謬」となってしまう。個人にとって利益のあること/楽しいことの組合せが結果的にその人を不幸にすることがある。

 広田照之『思考のフロンティア 教育』(岩波書店、2004)には、その事例が出ている。教育を自由に選択でき、民族/興味/関心によって違う学校に行く。学校では楽しく/快適に過ごすことができる。

しかしながら、その結果は冷酷である。教育の成果はいずれ労働市場で厳しい判定を受ける。ごく一部のエリート向けの学校へ行った者を除いて、多くの子供たちは、大人になったときに自分に開かれている職業の選択肢が、さほどよくないものばかりであることを思い知らされることになる。もっと魅力的な選択肢は、別の学校や別のカリキュラムを選んだ誰かにすでに専有されてしまっているからである。(…)つまり、「学校時代は誰もが幸せ/卒業したらほとんどが大変な人生」というシステムになりかねないわけである。(80頁)

 新自由主義的な教育選択制度というものが、「学校時代は誰もが幸せ/卒業したらほとんどが大変な人生」をもたらしかねないことを自覚する必要があるだろう。

*注 このビジョンだが、仮に不登校経験フリースクールを経験した人たちが特殊な社会を作り出し、そこで生きていくという事も出来るのではないか。フリースクールである東京シューレの出身者などが中心になって、シューレ大学という「学び場」を作った。これをさらに発展させ、不登校経験者のみが入れる社会(コミュニティ)を形成し、そこで生活できるとすればどうだろうか。そのとき、「卒業したらほとんどが大変な人生」の図式を打開できるのではないか。

 むろん、「楽しく」て、「将来役立つ」教育プログラム(あるいはカリキュラム)を作ればよいだけの話だ。けっして両立不可能ではないのだから(森下伸也『社会学がわかる事典』には「学級崩壊をふせぐには、授業に子供が集中できるよう、不必要な身体の拘束を解き、勉強をゲームとして楽しめるような工夫をしてやることが必要である。すべての勉強はもともと遊びから生まれたのだから、それはかならず可能なはずだ」〈174頁〉と、書かれている)。

 しかし、実際にそんな教育プログラムを作るのは難しい。誰にとっても楽しく、将来役立つ単一の学習プログラムを作る事は不可能だ。それは脳科学の発展が教えてくれる。耳から聞いている限り理解できない子どもと、文字では理解できない子ども両方に適合する教育プログラムは存在しないのだ。

 ひとつの方向性としては、個別プログラムによる個別学習があげられる。特別支援学級にそのヒントが求められる。教育実習で私は中学校の特別支援学級の生徒の授業にも参加をしたが、生徒1人と教員とが対面で授業をしていた。ひらがなの読み書き・簡単な英文法についてを個別のカリキュラムで授業していた。このような個別プログラムの設計が、「楽しく」「将来役立つ」学びを実現するのかもしれない。

 前に私の後輩のT君が、〈一人ひとりにあわせた個別教材による通信教育事業〉というアイデアを語ってくれたが、これも一つのモデルとなるだろう。

 しかし、仮に個別学習で教育が可能となったとき、「学校」はもはや必要なのだろうか? そんな疑問が浮かんでくる。社会に「子ども集団」の関わりの場が少ないうちは、その人間関係力・コミュニケーション力をつけるためだけに「学校」があってもよい。無論、「そこにいづらい」子のためのフリースクール的居場所(自宅も含めて)を用意していく意識を持った上で、という話だが。

親の視線

 友人のNと話す。テーマは「なぜ現在の子ども社会には〈空気を読む〉ことが重視されるのか」。

 思想家モンテーニュ。16世紀に生きた彼は、自分に子どもが何人いるか、分からなかったという(アリエス『〈教育〉の誕生』)。その時代、親にとって子どもは「勝手に生まれ、勝手に育ち、勝手にいなくなるもの」であった。

 その後、「教育」が必要とされるにつれ、子どもへの親の視線は強まった。子どもの人数も減り、ついには一人っ子が珍しくなくなった。するとどうなるか? 昔は親の視線は複数の子どもに分散されていた(あるいは親の視線がほとんどなかった)。それが数人、あるいは一人の子どもに集中する。子どもにとって、それは息の詰まる状態。学校でも家でも塾でも、常に親の視線を感じることになる。フーコーも言っているように、「見る―見られる」という関係は権力なのである(生−権力)。

 親の視線を感じる子どもは、つねに「いい子」でいようとする。親に認めてもらうために。この姿勢は、学校でも塾でも子ども社会の中でも内面化される。その内面化された姿の現れが、「空気を読む」という事になったのではないか。

 現在の子どもの生きづらさは、子どもへの親の視線の強化が原因の一つであるように思われる。

「途上国に学校を作る」ことは本当に善なのか?

 よく「途上国に学校を作ろう」というプロジェクトを耳にする。テレビでも、芸能人が学校作りに携わることがある(島田紳助など)。不思議なのは、どの時も「学校を作るのは善だ」という認識に皆がとらわれていることである。

 皆さんの学校経験を振り返ってほしい。学校は本当に素晴らしい所であったか? 私にとってはそうではなかった。自分で出来る内容を、「授業を聴かないで学んでは駄目だ」という無言の圧力ある場所。無理やり、クラスメイトと仲のよいフリをしないといけない場所。途上国に学校を作るとき、子どもの中に今までなかった「学校の持つ気持ち悪さ/苦痛」を与えてしまう可能性も考慮する必要がある。

 個人の内面だけでなく、文化自体も「学校」により消滅していく。例えばアイヌの文化。文字を持たない彼らの文化は、それ故に独自の輝きがあった。文字を学習する場所(つまり、学校)を無文字文化圏に作るとき、文化それ自体の特殊性も消え失せてしまうのではないか。

 フレイレは「学校」によって何年もかけて文字を習得させることを批判した。そんな非効率的なことをしなくても、必要ならば6週間程度の研修だけで識字教育は充分可能である。ゆえに子どもの時に無理して学校で教育を行わなくてもよいのではないか? これがフレイレの問題意識であった。

 したがって途上国支援の文脈で「学校を作ろう」という発想を、私は胡散臭く感じてしまう。日本ユネスコ協会の世界寺子屋運動も、ボランティアレベルでの学校建設運動も、「学校を作ることは善だ」との発想から抜け出ていない。「学校を作ること」の弊害も議論した上で発想しなければ、途上国の自由な子どもを「学校化」させるだけに終ってしまう。

N先生の思い出。

 高校時代。高三の後半はずっと受験対策に明け暮れていた。数学の時間に日本史をやり、地学の時間に日本史をやり、漢文の時間に日本史をやっていた。私が高校の授業の中で学んだことは、「授業だけ聞いていても、受験には受からない。もし自分の夢があるなら、他者に依存するのでなく、自分から進んで学んでいくことが必要だ」というテーゼである。要は〈内職なくして、主体的な学びなし〉というスローガンを内面化したのが高三の受験生時代だったのだ。

 さて、こんな私ではあるが高校の先生方には色々とお世話になった。それは内職をさせていただいたということだけではなく、個人的に会った際に多くのことを教わったということだ。教室での授業では私はほとんど学んでいなかった。

 特に現代文のN先生の話は非常に興味深かった。寡黙で規律正しいN先生のもとに、私は慶応大学法学部の小論文を解く度に添削してもらいに行っていた。デジタル/アナログの二項対立から小論を書いた際、一読して「面白い。」と言ってくださったことが、ものすごく私の支えになった。ブログで雑文を書きなぐるようになったのも、もとを辿るとN先生に褒めていただいたことが一つのきっかけかもしれない。

 N先生が小論文にコメントを下さる際、次の話をされたことを最近思い返している。実はこの指摘、非常に深い意味があったのではないかと考察しているのだ。忘れないために、ここに記すことにする。

「常に人類の社会は〈少数者による多数支配〉の図式で続いてきた。ギリシャの市民政治も多くの奴隷を支配していたし、ローマ帝国も中国の各王朝も日本の大和朝廷・天皇制も常に〈少数による多数支配〉であった。現代の日本においてもそれは続いている」

 高校時代、N先生からお話をうかがえただけでも意味があったように思える。

大大学 その傾向と対策

吉本隆明は山本哲士との対談の中で「大大学」を話す。学歴社会の進行が、「大学」ではなくその上の「大大学」を要求するようになる、と。いま、大学院生の数は10年前の2倍。「大学院大学」と「専門職大学院」も普及した。吉本の「大大学」が大学院の形で広まってきている。もはや人は大学に行くだけでは差がつかなくなり、「大大学」である「大学院」にいくことが普及するであろう。学歴社会は「大学全入時代」で幕を閉ざすわけでない。今以上に進行するであろうと思う。このことが本当に「輝かしい」ことか、教育学者は考えなければならない。

 この引用はTwitterの中で、私がIshidaHajime名義で書いた文章だ。吉本隆明と山本哲士の対談『教育 学校 思想』(日本エディタースクール出版、1983)から、元の文章を見てみよう。

(石田注 吉本の発言)一般的に学問とか知識とか芸術とかいわれているものが、もう少し時代が進んで大きな観念の空間を占めるようになるとするでしょう。そうしたら、いまは小学校から大学まであって、中学まで義務教育になっていますが、やがて大学まで行ってもまだ間に合わない。そこで、大大学というものまでできるという発想になりますか。(9192頁)

 私の記憶違いで、どうやら必要とされる知識が増大するために「大大学」が要請されるようになる、という文脈であった。学歴社会が進行すると本来学歴が必要なかった職種に高学歴をもった人物が入って来、パイを奪い合うようになる(RP・ドーアの『学歴社会 新しい文明病』冒頭には「学士タクシー」の話があった。これはもともと高卒程度の学歴があれば良かったタクシー運転手に、大卒の人間が入ってくるようになる、という話である)。いま、「大卒」で仕事にあぶれる人が多くいる時代である。この本が出てから27年が経ち、当時より遥かに多くの大学と大学院が作られた。吉本が危惧する「大大学」化は次第に現実化しつつあるように思える。

 そうなった場合、人間がさらに幼稚化すると吉本と山本は続ける。中卒で働くのが普通だった時代と、高卒で就職が普通であった時代、大卒就職が普通となる時代とでは、同年齢の人間でも「幼稚さ」が高まってくる。もっとさかのぼると、「学校」がなかった遥か昔、子どもたちは「小さな大人」として遇されていたことを考えれば、「学校」が人類の幼稚化をもたらしているように思える。

『対話 教育を超えて』の中で、イリイチは言う。

ぼくは、教育なんてものは、西洋の中身のないからっぽの機構、つまりもっとも異端的な教会でしかないと思っている。ぼくが子供について話すのを避けてきたのは、全世界の民衆が幼児化されるという危険がつきまとっているからなんだ。今この瞬間にも、あらゆる政府や国際組織、さらには教会でさえ、教育的な治療を広めようという政策でのぞんでいるわけだ。ぼくが、ここにやって来たのは、ただ、子供時代を社会的に拡張することに対して警告を発し、それに反対の態度を示そうと思ったからなんだ。(122頁)

 さきほど私は「幼稚化」をあげたが、イリイチも「幼児化」ということで説明をする。学校が人間を成熟させるのではなく、逆に「幼稚化」(「幼児化」)させるのであれば、そんな学校にいかほどの意味があるのか。

追記

 「過剰教育」という言葉がある。竹内洋らの『教育社会学』では次のように説明されている。「労働者の教育水準が職業の資格要件を上回っている状態。たとえば、雇用市場の不況から大卒者が専門的な仕事につけずに不熟練職に回る場合など」(252頁)。いま大卒の価値は急激に低下している。過剰教育の結果として、「大大学」が普及する可能性は十分にあるのだ。

子どもの保護は、絶対の真理か?

『まんが能百景』(渡辺睦子 作画・増田正造 解説、平凡社、2009)を読み終える。能の物語を見開き2ページで分かりやすく漫画で説明してくれる、便利な本。面白く読んだ。

 僧が道を歩いていると、近くにいる人が案内をする。実はその案内人は幽霊で、「弔ってくれ」と言って消える。僧が弔うと幽霊が成仏を喜んで舞う。大体の能が、こういう型に基づいて描かれていた。何事にも、「構造」があるものだ。

 「構造」と言っていいかは分からないが、子どもを人買人(ひとかいびと)にさらわれ、母親が狂乱しつつ探しまわるというシナリオも『まんが能百景色』に多く登場した。

 「人の命は地球より重い」という言葉をよくきく。けれど、「生命の重さ」はどの時代でも一定であるわけでない。昔、子どもは勝手にいなくなったり、勝手に死んだり、誰かに殺されたりするものだった。大体、親が子どもの数を正確に覚えていないことも多い。モラリストと評価されるモンテーニュも、自分の子どもの数を覚えていなかったほどである(以上、アリエス『「教育」の誕生』より)。「人買人」に買われたり、さらわれたり。そういうことが日常的にあった(『千と千尋の神隠し』という映画のタイトルにあるように、「神隠し」も頻繁にあった)。でなければ、日本の伝統芸能である「能」に「人買人」の話が出てくるわけがない。

 現在の社会では、「子どもを守る」ことが重視されている。いま私鉄の改札を通るたびに親にメールが送られたり、「ココセコム」や携帯で居場所を親が探せるようにしたり、塾に監視カメラがあったりするなど、種々の技術を活用しつつ子どもを保護する(『学校身体の管理技術』より)。私も保護されて育ったゆえに私が何か言える権利はないかもしれないが、本来子どもはこれほど保護されなければならない存在だったのだろうか? 能を見る限り、そうではなかったことがよくわかる。

 本稿で私は何も「子どもを保護するな」と言っているのではない。時代に応じて、何が正しいかは移り変わる。「子どもを保護しない」のが当然の時代もあれば、現在のように「保護しまくる」時代もあるのだ。 シュタイナー教育について学ぶ。

 最近、子安美知子『シュタイナー教育を考える』を読んでいる。シュタイナー教育の概要が詳しくわかってくる本だ。

 外から教えるのでなく、子どもの内側から発露してくるものを大事にする授業。それを実現するために、オイリュトミーやフォルメンを行う。子どもの内なるリズム・発育時間を大切にし、それに沿って少しずつ授業のやり方を変えていく。

 ホリスティック教育といわれるものの中でも、一番ホリスティックな教育がシュタイナー教育であるようだ。

 ただ、1点、読み進める中で疑問を感じた。子どもの自然な発育を待ち、それに合わせて授業を行うというシュタイナー教育。これ、ものすごく周到な洗脳教育プログラムでもあるのではないか。

 むろん、シュタイナー教育のプログラムが邪悪な意図を持って作られたものでないことは確かだ。けれど、善なる意思を持って「その子のために」教育プログラムをつくることが構わないとするなら、公教育プログラムに対してもそう言えてしまう。

 シュタイナー教育やフレネ教育、モンテッソーリ教育など、「~~教育法」というものを色々私は学んできた。公教育よりよっぽどましな教育であることは確信している。けれど、これらの「~~教育法」は、子どもに対する押しつけ・洗脳・強制であるように感じられるようになってきた。よい教育プログラムを用意することは、そのプログラムに適応するようにしか、子どもは育つことができないことも意味する。あらゆる「~~教育法」というと呼ばれる存在に、私は「気持ちの悪さ」を感じてしまうのだ。本来、子どもという存在はそれ自体において価値がある存在であると考える。その存在に対し、他者が「よい教育をしよう」と言って何らかの教育プログラムを強制することは権力的作用ではないか。

 『フリースクールとはなにか』という本の中でも、次のようにある。


伝統的な学校教育ではなく別のものを求める、というとき、シュタイナー、モンテッソーリ、フレネその他、はっきりした教育思潮と方法論をもって世界的に広がっている教育もある。それらは、オルタナティブ教育と呼ばれても、フリースクールとは呼ばれない。フリースクールは、オルタナティブスクールのなかの一つであって、学校教育以外であればフリースクールというわけでもない。
 フリースクールが、他のオルタナティブ教育ともっとも違う点は、子どもを主体とすることであり、教育内容を自由につくりだす、ということであろう。○○○○のために教える、活動させる、というのではなく、子どもの興味、関心、意欲に依拠して作っていくことになる。それは、子ども中心であるがゆえに、教師と生徒の関係を含め、あらゆる側面が変わることになる。(NPO法人東京シューレ編『フリースクールとはなにか』教育資料出版会、2000年、17頁)

 教育プログラムが優れたものであるほど、そのプログラムに子どもを(無理矢理でも)合わせようとする。イリイチの言葉を借りるなら、「制度化」である。「子どもが成長すること」という本来的な目標を忘れ、教育プログラムの遂行のみを目的と取り違えてしまうようになる。フリースクール以外のオルタナティブスクールでは、ともすればそういった価値の転倒(=価値の制度化)が起きてしまう可能性があるのだ。子どもを主体とする教育。それ以外のものに、私は「違和感」「気持ち悪さ」を感じてしまうようだ。

 そういえば宮台真司の『14歳からの社会学』にあったことを思い出す。世界が精密にプログラムされている現状。それに気付いた時、人は離脱しようとするのだ、と映画『マトリックス』などを基に説明をしている。教育に対してもそれは言える。教育プログラムが精密であればあるほど、「俺って、いなくてもいいのかもな。どうせ、誰に対してもこんな教育をするんだろうし」と「自己疎外」が発生する。学校教育における落ちこぼれや不良とされる人々は、「自己疎外」ゆえに教育プログラムを離脱しようとするのだろう。

頑張らなくても、認めてね。

 24時間テレビ、私は大嫌いだ。

 一番イヤなのは、「障害を持っているけれどそれに負けずに頑張っている子」のドラマである。それをみて、「ああ、私も頑張らないとな!」と思ってもらえるよう、お涙ちょうだい型ドラマになっている。

 あまりにもこういうドラマを見ると、「障害者って、頑張っているんだ」という認識になる。現実にいる障害者を目にしたとき、その人が「頑張っていない」なら「なんだよ、コイツ」と思ってしまう。

 障害者は頑張らないと認められないようである。そういうウラの意図が「障害を持っているけれどそれに負けずに頑張る」という認識に込められているのだ。

 個人は個人であるだけで、その存在を認められるべきである。頑張っていようが、頑張っていなかろうが、自分を受け止めてくれる居場所が必要だ。

 要は「頑張らなくても認められる空間」が必要なのである。アーレントの言う公共性の議論ともつながりが深い。

 フリースクールを「居場所」ということがあるが、それもある意味では「頑張らなくても認められる空間」ということなのである。

〈世界〉とは何か。

 その人にとって見える世界しか、〈世界〉ではない。進学校に通った人間の〈世界〉では、大学に行かない人はアブノーマルなのだ。けれど、中堅高校に通った人の〈世界〉において、大学は「半分くらいの人が行く所」という認識になる。

 私(=進学校に行った人)は勝手に、「いま大卒でも仕事が無くなってきており、大学院に行くことが要請されている」と軽々しく言ってしまう(大大学 傾向と対策)。しかしそれはあくまで「私」の見た〈世界〉であり、日本全体を見た話・地球全体を見た話ではない。

 知識人やマスメディアの人間は「大卒」ばかり。自然と大卒人間の見た〈世界〉観を維持する報道を行う。けれど〈世界〉はもっと本来豊かなものなのだ。アーレントの他者概念の中にも、そのようなものがあった。

 自分の見ている〈世界〉だけが世界ではない。そう考えていくと、異なる他者への理解がおよぶはずだ。自分の〈世界〉がいかに狭いかを知ることが必要だ。それ故にこそ、若者は旅に出るのだろう。自分の知らない〈世界〉と他者を通じて触れ合うことができるからだ。フリースクールに通う子どもたちも、不登校時代に海外放浪旅行や「四国のお遍路」を踏んだ経験を持っている人がしばしばいる(『ボクらの居場所はここにある!』)。それにより、不登校や学校を相対的に見れるようになる。「あ、なんだ不登校でも生きていけるんだ」と気づくのである。

コーヒーが飲める「異常」性。

 118日。早稲田祭が終了した。我がサークルで睡眠時間を削りまくって戦っていた。酒も絶っていた。そんな中、私はコーヒーをやたら飲んでいた。缶コーヒーをひどい日は5缶。あんまり飲まない日でも朝に1本は飲んでいた(ワンダのモーニング・ショットは中毒性がある)。つらくなった時は、喫茶店にいった。「どんなことがあってもコーヒーだけは温かい」という少し前の缶コーヒーのキャッチ・コピーの秀逸性を感じる。

 前回のO先生のゼミでもコーヒーの議論をした。コーヒー豆は中南米や東南アジア、アフリカの一部くらいでしか生産できない。けれども、日本を含めた先進国あちこちに「喫茶店」があり、缶コーヒーが普及している。

 本来、コーヒーは世界中で飲まれるはずがない商品なのだ。一部の地域でしか生産できないからだ。にもかかわらず、世界中で飲まれている。これは文化伝達というよりも、「異常」と見たほうがよいのではないか。

 世界中で同じものが嗜好される。これにはコマーシャリズムの影が見える。

 近年、日本では緑茶の消費量をコーヒーの消費量が上回った。この事実は「コーヒーは万人に愛されている」ということではなく、「人々がコーヒーを好むよう、商業主義がコントロールをしている」と解するべきであろう。

 イリッチは「場所性」を主張する。田舎が都会をまねる必要はないし、都会も田舎をまねる必要はない。それぞれの場所が、それぞれの場所固有の生活・文化を維持していくことが必要なのではないか。イリッチのこの考え方を頭に置いた場合、現在のコーヒー文化のもつ「異常」性が見えてくる気がする。

幕引き

 4年間やってきた大学のサークルも、昨日でついに幕となる。早稲田祭企画のあと、終了式→飲み会→高田馬場ロータリーで騒ぐ、という流れを過ごした。このサークル、軽いサークルでは全然なく、話し合いの場で泣き出すものも出てくるほど「熱い」、別の言い方をすれば「恐ろしい」サークルなのである。

 何事も、最後までやりきることが必要なのだと実感した。

 このサークルで学んだこと。それは「思い」を語ること・「思い」を込めて行動することである。

 私は形式的に行動することが多い。サークルのメンバーへの励ましも、企画の準備も、日常の活動も、「やらなきゃいけないから」、型どおりに行っていた。「やっていないじゃないか」と叱られないために。はじめはうまく回っていたが、3年生の途中からつらくなってきた。「やりたくない」という思いが強くなってきた。けれど、「嫌だけれど、やらなきゃな。仕方ない」との意識で行っていた。

 4年生の9月。どうしようもなくなった。全くやる気が起きなくなった。でも、サークルに行かなければ。しんどさが付きまとっていた。

 サークルの話し合いをサボった翌日、尊敬している人からメッセージをもらった。自分に対する期待が感じられた。「もう一度、素直に・謙虚に、やり直すことからはじめよう」と決意した。

 それ以来、叱られたなら素直に聞いて「よし、改善しよう」と努めるようにした。特に意識したのは「絶対に諦めないという執念を持つこと」、それと先ほどの「思いを語る・思いを込めて行動する」ということであった。

 サークルのラスト1ヶ月で、自分の考え方が大きく変わった。

 途中で投げ出さずに済んで、本当によかったと思っている。最後の最後に、私に欠けていた部分を知り、克服のために動くことができたからだ。

 さて。来年このサークルに私はいない。昨日、ロータリーで校歌を歌ったが、そこの一節が非常に胸にしみた。

「集まり散じて/人は変われど/仰ぐは同じき/理想の光/いざ声そろえて/空もとどろに/我らが母校の/名をば讃えん」。 仮説:「脱学校」的学びの究極は喫茶店スタイルである

 前に親友のOと話していたとき、ふと「脱学校的な学びの究極は、喫茶店スタイルではないか」と気づいた。まさに早稲田駅前のシャノワールで話していたためでもある。

 答えにはならなくとも、近い回答にはなるであろう。

 前に「勉強カフェ」という喫茶店に行った。渋谷にあるそのカフェは「勉強する」という意思を持った人が多く集まる場所だ。自習室で集中して学ぶことも、自分と同じ資格取得を目指す人たちと交流することもできる。これ、イリッチの言うラーニングウェッブの「仲間探し」という機能そのままではないか。

 以前、私は「ラーニングウェッブは現在のブログ空間のことでないか」という雑文を書いた。そこには実は大きな限界があった。ブログでは物理的に会って学ぶということが起きにくい。また、検索によってそのブログを知るために《全く興味がない人》が意図せずに見る、ということも起きにくい。内田樹は〈ひとは「これを学びたい」と思わないことを学ぶことがある〉などと書いているが、本来人は「何を学ぶか」を説明することはできないものなのだ。

 

 喫茶店に、新たな学びの可能性がある。喫茶店のテーブルから周囲を見ると、一人雑誌を読む人・書物と格闘する人・雑談を楽しむ人・目を閉じて瞑想にふける人(単に寝ているだけだが・・・)など、様々な人が眼に入る。「何をしてもいい」「学ばなくてもいい」のが喫茶店なのだ。学校なら「これをしなさい」と言われる。フリースクールは確かに喫茶店に近いが、「ふらっと、全く契約していない人が来る」ことはない。それに来るのは子どもばかりである。

 喫茶店には「アジール」という働きもある。日常に疲れた人々がやってくる「逃れの街」である。よく「子どもの居場所」を自認するフリースクールがあるが、喫茶店は子どもを含めた「現代人の居場所」であるかもしれない。

 脱学校的学びの究極は、喫茶店スタイルかもしれない。

 どうせなら、フリースクール的要素を満載した喫茶店もあってもいいのではないか。

 

 「そんな喫茶店を、自分がやってみたい」という声が、内面から響いてきた。

「学校にまにあわない」の恐怖。

 前にも書いたが、私はいまひたすら「たま」というアーティストの音楽を聴き続けている。脱学校論者である私(「素人が、簡単に自分のことを『〜〜論者』と名乗るな」、と言われそうだが、自分で言わないと誰もそう認識してくれないので初めからそのように言う)に、有益なヒントをもたらしてくれる。そのうち、「たま」の音楽を評論することで脱学校論について整理する論文も書けるのでないか、と思う。

 「たま」の音楽をi-podに入れて、どこでも聴く。イヤな場所に行くのも、少し気が楽になる。「引き出しの中に広がった/三千世界の彼方まで/翼をゆらゆらバタつかせ/いますぐ着陸態勢に入るよ」(「はこにわ」)という歌を「たま」は歌うが、i-podの中にも「三千世界」が広まっているように感じるのだ。

 さて。今回は「学校にまにあわない」を例に取り上げよう。前半部には幻想的風景が、後半には「学校にまにあわない!」と叫ぶ主人公の恐怖が描かれる。冒頭は、次の詩で始まる。

百万階建ての

ビルディングの建設

階段だけしかない

それだけの為の建物

 「百万階建て」なのに「階段だけ」しかないビル。上に行くことが目的だが、それには有益性が何もない。このビルを学歴と捉えればまさにその通り。

 イリッチは「学校化」ということを述べた。学歴自体には何の意味もないのに、「能力がある」ことにされる。私の周りに「早稲田大学卒」という学歴を持つ人が多くいるが、皆すごく能力があるかというと決してそうではない。でも世間は「早大卒」という学歴には「高能力」という意味があると勘違いをする。

ある日足場踏み外して

そのままの姿勢で堕ちて行く

 学歴ビルの階段を、すべての人が上に登れるわけでない。ほとんどの人は途中で「足場踏み外して/そのままの姿勢で堕ちて行く」のである。学校秀才とされる人も、いつ「足場踏み外して」しまうかもしれないという恐怖を持っている。その恐怖が「頑張らないと!」という思いになり、さらに階段を上って行くことにつながる。そのことにより鬱になり、結局「足場踏み外」すこともあるのだが。

 学校のもつ恐ろしさ/恐怖を示すこの歌。けれど、直後に「脱学校」的希望が描かれている。「足場踏み外」す恐怖のあと、このように歌詞は続く。

でも下には網が張ってあって

僕はうまいことフィニッシュを決めるのさ

満場のお客様が

いっせいに拍手 拍手

 「足場踏み外」しても、あんがい「下には網が張ってあ」るものなのだ。大事なのはその際に「フィニッシュを決める」ことができるか、どうか。学校的価値観から脱落しても(脱落する道を選択しても)、それだけで人生に失敗することにはならない。学歴ビルの階段を上る時は「堕ちていく」ことは恐怖だが、堕ちてみると「下には網が張ってあ」ることに気付けるものだ。脱学校的価値観で生きて行く道を選択することが、「フィニッシュを決める」ことだろう。

 けれど。この歌の作者は「網が張ってあ」るだけで安心をさせてはくれない。「フィニッシュを決め」た後の、続きの歌詞を見よう。

でもひとりだけ

後ろをむいている男がいるぞ

こいつ前にまわってのぞきこんでやれ

あ なんだ僕のお父さんじゃないか

 脱学校的価値観で生きることを決めた私。周りも、けっこう肯定してくれる。「満場のお客様が/いっせいに拍手 拍手」なのだ。けれど、保護者は最後まで肯定してくれないことがある。親と子どもの価値観は、常に一致するわけではない。

 『学校の悲しみ』というエッセイがある。著者ダニエル・ペナックはものすごい「劣等生」だった。母親は子どもの将来に絶望をした。こんなに成績の悪い息子は、ろくな大人にならないのじゃないか。不安、心配。ペナックが教員になり、また作家として新聞に名が出るようになっても、母の不安は無くならなかった。

どんな「成功の証明」を見せても、母の心配がなくなることはなかった。ぼくがどんなに電話をかけても、どんなに手紙を書いても、母に何度会いに行っても、ぼくの本が出版されても、書評を見せても、ポヴォーの番組(石田注 脚注を見ると、フランスの書評テレビ番組であると出ている)に出ても、だめだった。(……)もちろん、母はぼくの成功を喜び、友人たちとそれを話題にし、息子の成功を知ることなく亡くなった父が生きていたらどれほど喜んだことかと言ってはいた。しかし、心の奥のどこかに不安が残っていた。そしてそれは、もともとの劣等生によって生み出された永久に消えることのない不安だった。(67頁)

 親にとって、学校的価値を外れた存在に一度でも子どもがなってしまうと、子どもの将来を悲観してしまう。あるがままの存在として、子どもと向き合うことができなくなってしまう。「後ろをむいて」しまうのだ。

 おまけに皆がみな、「網が張ってあ」る上に堕ちるわけではない。

倒れたラクダの

目玉だけが生きててギョロリと僕を見ている

みないようにみないようにしているのだけど

どうしても見てしまう

 「ラクダ」君は、ビルから堕ちてそのまま地面に叩き付けられてしまったのだろう。学歴ビルから堕ちて、「網」にも乗ることができなかった人間は、「目玉だけが生きててギョロリ」と社会を見つめる。けれど、もの言えぬ「ラクダ」ゆえ、彼ら(彼女ら)の声は社会に響かない。私の周りにもいる。「学校的価値」のもとに生きてきたが、結局そんなものに意味がなかったことに絶望をする人。「就活が決まらないなんて、何のために早稲田に入ったんだ、俺は!」と嘆く人。残念ながら学歴ビルはそこから堕ちて「倒れたラクダ」になる人の存在を見越して設計してあるのだよ。どこかでそのことに気づき、「網」の上に乗り、「フィニッシュを決め」ないと、制度設計者の思うままになってしまう。

 「学校にまにあわない」のラストは、あえて(か分からないが、おそらく)カタカナで書かれている。読みにくいので、原文の下に漢字仮名まじり文でも示す。

ミタナ ボクノ オモイデ

キミハ キョウ カワニ ドブント オチルヨ

ボクハ クサノシゲミデ キョウカショヲ サガシテ

キョウカショガ ミツカラナイ

ガッコウニ マニアワナイ

ノートモ ドッカ イッチャッタ

センセ ニ オコラレル

見たな 僕の 思い出

君は 今日 川に どぶんと 堕ちるよ

僕は 草の茂みで 教科書を 探して

教科書が 見つからない 

学校に まにあわない

ノートも どっか いっちゃった

先生に 怒られる…

 学校に行きたくないから、河原で道草。そのままお昼寝でもしたのだろうか。天高く太陽が昇っている。やばい、学校に行かなきゃ! でも、カバンを置いていたら中の荷物が散乱しちゃっている。どうでもいい教材はすぐ見つかった。でも重要科目の教科書がない。ノートも見つからない。行ったところで、「なんで教科書を忘れたんだ」と先生に怒られてしまう。

 「学校にまにあわない」。それは学校に行きたくないのに、無理して行かなければならない子どもの悲しみを描いた歌なのだ。私にも、こんな感覚があった(でも、何故か皆勤賞だった)。学校が持つ「恐ろしさ」を次第に忘れてしまっていたが、「たま」のお陰で思い出してきたのである。

 この、学校への原初的恐怖感が描かれたラストシーン。忘れることの出来ない風景である。

 

なお、歌詞は『たま セレクション』の歌詞カードから引用した。歌詞カードには載っていない、ボーカルの石川さんのモノローグがこのラストシーンのあとに延々と続く。こちらも「学校への恐怖」が力強く表現されたものなのだが、別の機会に書くことにしよう。

 たまの歌は少し明るい。ゆえに歌詞のもつ暗さが見えにくくなる。そこに注意すべきだ。明るく楽しい歌の中で、人間のもつ本源的孤独を示していることがある。

参考文献

ダニエル・ペナック著/水林章 訳『学校の悲しみ』みすず書房、2009

通信教育に、人はなぜ「だまされた!」と思ってしまうのか。

 いま山手線の車内ではユーキャンのCMが流されている。それを見るたびに私は苦い記憶を思い出す。かくいう私は通信教育に何度も挫折しているからだ。「記憶術」やら「行政書士」など、いろいろやったが、最後までやり遂げたのは小学生の時の「電子工作」くらい。何故、私は通信教育に挫折してしまうのか。こうも何度も何度も挫折するということは、私が悪いのではなく通信教育の構造上の問題があるのではないだろうか(責任逃れとは呼ばないでほしい)。

 言い換えよう。なぜ人は通信教育で「だまされた!」あるいは「挫折した」と思ってしまうのだろうか。

 それは学ぶのには、「お金」以外に時間というストックも必要だからだ。

 「私」という存在は、時間によってどんどん変化していく(レヴィナスは「時間とは私が他人になるプロセス」だといった)。通信教育を始める前の自分と、始めたあとの自分は別の存在なのだ(学習して変化したのではなく、ただ時間の経過が自分を他者にする)。通信教材の頁を開くとき、「なぜこんなものを学びたいと思ったのだろう」と思うことがある。段々開くのがイヤになる。それが高価であればあるほど、見たくもなくなる。

 クーリングオフ期間に決断できることは少ない。いずれも、「あ、ムリかも」から始まって、いずれは「無理だ」とあきらめることになる。おまけに、1回やったからといってその学習が習慣化されなければ、「気づいたとき」「レポートを出すとき」しか教材をやらなくなる(そのうち、レポート期限なのにやらなくなってしまう)。

 学校の場合であれば、肉体的に学びの場所に「行く」という行為によって、学びの「構え」を成立させることができる。そのため、学びの場所(学校やサークル等)に行く間に、モチベーションを自分で定めることができる。けれど通信教育は自宅の中で行う。いままでの何らかの生活時間を縮減する中でしか学びを行うことができない(だから、通信教育を経験した人の回想には「喫茶店で会社の帰りに勉強しました」というコメントが登場するのだろう)。モチベーションを上げるのも難しくなってしまう。

 結論。通信教育は始めから失敗するように出来ているのだ。教材会社が悪いのではなく、通信教育という「学び」のあり方自体が持つ性格が人を挫折させるのだ。もしあなたが通信教育で挫折していたとしても、それはあなたが悪いのではない。「そういうもの」なのだ。

 通信教育というサービスが、にもかかわらず卒業生を送り出している。これはその人たちの努力の賜物であろう。

 通信教育について、追加であと幾つか。

 学校と違い、通信教育で学ぶ際「こんなはずじゃなかった!」という思いを共有する人がいないのはツラいことだ。グチを言える他人がいれば、「まあ、そんなものかな」と過ごしていける。通信教育は基本的には一人のみでおこなう。強き意志をもった主体でないと、「遊んで」しまう。通信制大学の卒業率の低さ(場所によっては1割もいかない)は、レポート課題の困難さよりむしろ、制度的な学びを一人で行うことの難しさを示している。巨大な学校制度に対し、同僚もなくたったひとりで立ち向かうのはなかなかに過酷なことなのだ。

 おまけに、やらなくなる結果が多くなると自分を卑下し、自暴自棄になる。社会人で、「今日から通信制の大学で学びはじめたんだ」と宣言している人はうまくいかなくなると、自分が惨めになる。〈制度的な学び〉はグチれる〈他者〉がいないと、うまくいかない(ことが多い)。

 世にこれだけ通信教育が流行っているということは、それだけたくさんの挫折者がいるということだ。

 冒頭にも書いたが、私もいろんな通信教育で学び、そして挫折してきた。苦さを経験してきた反面、通信教育の「良さ」もよくわかる。それは、「あんな自分になりたい」という欲望を一時的に満たすことができるということだ。

 通信教育はまさにドラえもんのポケットなのだ。「あんな自分になりたい」思いを一時的に満足させてくれるが、相当努力しないと夢は実現せず、自らが変化しない。のび太は漫画『ドラえもん』のなかではほぼ無成長モデルで描かれていることを考えてほしい。のび太は一時的にドラえもんの出す道具によって全能観を得るが、そのあとは再び「ひどい目」にあっている(要は挫折しているのだ)。通信教育の良さは、ドラえもんの道具を貸してもらったときののび太のような「全能観」(夢が叶ったような気がする思い)を味わえる点だ。悪い点は道具を出してもらったあとののび太のように「挫折」を味わうてんである。

 「一人で学べる力」がなければ、結局は制度的な通信教育もうまくいかないのだ。そのためには、自分が心の底から「これを学びたい!」「学ばないと、仕事で困る」という切実な思いがなければならない。私はこういった切実な思いをもつ学びのことを「渇きによる学び」と命名しているが、この「渇きによる学び」がなければ通信教育は結局成立しないのだ。

ウルトラマンの代理戦争

 正義の味方・ウルトラマン。彼()は命を懸けて地球のために戦っている。本来、自分に関係ないのに。まさにホワイトナイト(白馬の騎士)

 ところで、もしウルトラマンが地球を守っているのでなく、ウルトラの星(およびM78星雲)と怪獣との『代理戦争』を地球で行っているとすればどうだろうか? もはや正義ではなく、話は180度逆になる。

 ベトナム戦争や朝鮮戦争は米ソの代理戦争であった。代理戦争で損するのは戦われている現地の人間である。
代理戦争において、力のある側は味方のふりをする。『ベトナム人民の味方』をソ連は演じ、『共産主義からベトナムを守る』仮面をつけたのはアメリカであった。

 代理戦争はウルトラマンそのものではないか!
総力戦ではないのがせめてもの救いだ。

「教育」なんて、要らない。~「渇きによる学び」考~

16年間の「学校」教育。

 気づけば、私も大学生になっていた。早いものでもう4年目である。ここまで、義務教育9年+高校3年+大学4年=16年間も、「学校」で教育を受けてきたことになる。長いものだ。

 ところで、「学校」で学んできたものの総量と、「学校」外で学んできたものの総量とでは、どちらが多いだろうか。学校制度は「教育」政策の根幹をなすものである。本来は学校という場において「学ぶ」という作業は行われているはず。しかし私は日本語運用能力も、コミュニケーションの技術も学校の外でほとんどを学んできた記憶がある。学術的知識という、学校が本来担っている部分ですら、大部分は自分で本を読んで学んだことだ。

 では、学校という存在は本当に役立っているといえるのか? 学校は何のためにあるのか。

寺子屋をつぶして、「学校」へ。

 江戸時代の日本には寺子屋という教育機関があった。人口4000万人の時代に、約2万校存在したとされる。これは江戸幕府や藩が設立したのではない。自然発生的に、民間の有志が作ったものである。

 この寺子屋では「子どものため」の教育が行われていた。社会で生きるのに必要な「読み・書き・そろばん」の技術を習得する場所であった。必要がなくなればいつでも卒業できた。学習内容も、子どもとその親の要望によって変わった。大工の子どもには「大工往来」という、大工になるのに必要な知識を詰め込んだ教科書が使われた。商人の子にも、やはりそれに応じた教材が使われていた。現存するだけでも、寺子屋で使われた教科書は1万種類を超えている。寺子屋では子どもの要望に対応した教育が行われていたのである。おまけに、寺子屋は必要ないと判断すれば、「行かない」ことすら選択できたのである。

 先ほど、「学校は何のためにあるのか」という疑問を述べた。教育学的に見ると、「学校」の使命は単純明快。それは「国民」の形成である。

江戸時代が終わったとき、日本にいわゆる「日本人」はいなかった。何故か? 全国各地がいくつもの国に分かれていたからである。当時日本は大小多くの藩にわかれており、それが国としての役割を果たしていた。そして薩摩の国・長州の国など、それぞれの国を大名が治め、その大名を江戸幕府が統括していたのだ(故郷を聞く際、「クニはどこだ?」と言うのはその名残である)。薩摩の国に住む人は、自分のことを「日本人」と捉えず「薩摩の国に住む者だ」と認識していた。

 それぞれの国どうしは話す言葉もちがっており、方言は相互に理解不能なほど複雑なものだった。参勤交代で江戸に来た大名たちも、お互いの意思疎通には筆談を使っていたといわれている。

 要するに、明治時代に入るまで日本には「日本人」はいなかったのである。これでは明治政府は困ってしまう。「日本」という抽象的概念の元に国をまとめなければ、国内が混乱してしまう。前近代であった江戸時代、たくさんの国に分かれていたことはすでに述べた。国自体がバラバラであったわけだ。国内がバラバラであれば、その混乱に乗じて外国が日本を攻めてくる可能性がある。すでに同時代のアジアでは欧米諸国によるアジア侵略が始まりつつあった。「日本も欧米に侵略されるかもしれない」。こんな危機感が政府の中にあった。そのため、「日本人」という認識を人々にもたせ、国民の精神の統一を図ろうとしたのである。

 そこで明治政府は2つのものを利用した。それは「学校」と天皇である。

 全国各地に昔からあった寺子屋を廃止し、「学校」をつくる。「学校」では方言ではない標準語で授業をした。「日本人」という意識を持たせるため、日本史や日本の地理の学習をさせた。同時にトドメとして、天皇を用いた。〈日本国民は天皇の赤子である〉という教育を行い、精神的な意味での「日本人」意識を持たせたのである。

 つまり、「学校」なんてものは本来、私たち個々の人間のために作られたのではなかったのだ。国家のために働く「日本人」を育成するためだけに、「学校」がつくられた。その証拠に、「学校」をつくるとき、明治政府はわざわざ寺子屋をつぶしてしまった。

「子どものため」に作られた寺子屋を壊すところから始まった、明治の「学校」教育。現在もまだ、明治の制度を引きずっている。

 ここら辺で、一度「本当に《学校》教育は必要なのであろうか」と、探ってみることも必要なのではないだろうか。

強制的・制度的な勉強は有効か? Hさんの事例より。

 

 私の友人に、Hさんがいる。現在20歳の彼は小学1年のときに不登校になり、13歳くらいからフリースクールに通うようになったそうである。なお、フリースクールというものは日本では「不登校の子のための学び舎」という意味が一般的だ。無理に子どもを勉強させるのではなく、自由に過ごすことのできる場所。いつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。来ないという選択肢もある。カリキュラムは一応決まってはいるが、基本的には子どもがやりたいと思うことを自由に行えるところだ。以前私が「東京シューレ」というフリースクールに見学に行った際、6歳の子どもと16歳の子どもが一緒にテレビゲームに興じていた。キャッチボールをしている子どもも、『名探偵コナン』を読んでいる子どももいた。

 Hさんは「東京シューレ」に、8年間通った。今年の春にシューレを辞め、会社で働きはじめた。彼は18歳まで、文字を読むことができても、ひらがなを書くことができなかったとそうだ。いまでは習得し、書けるようになった。会社でも普通に文字を書いて働いている。

 Hさんの話を居酒屋で聞いていて、自分の「教育」に対する思い込みが晴れていくように思えた。今まで私は「文字の読み書きくらいは、無理やりでも子どもに学ばせなければならない」と考えていた。そうしなければ、個人の不利益になるからだ。けれどHさんの話を聞いて以来、「無理やりでも学ばせる」ということの必要性を疑うようになる。話を聞いていて、思わず焼き鳥の串を落としていた。

 現状の教育制度ではHさんのような存在が「あってはならない」ものだと考えられている。文字の読み書きが出来ないと、人は不幸になる。だから、無理やりでも教えなければならない。普通はこう考えられている。けれど、本当にそうだろうか。彼は「ひらがなを長い間書けなかったけど、そんなに困らなかったよ」と語っていた。「無理やりでも学ばせないといけない」と教育関係者は躍起になっているが、案外Hさんの言うようなものかもしれない。

 パウロ・フレイレというブラジルの教育運動家がいる。フレイレは学校廃止を主張した人物だ。その理由として「何年もの長期にわたって厖大な公費を投じてなされる公教育による教育的な結果は、ほんの六週間程度の成人識字教育によって充分はたしうる」(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』174175頁)からであると説明した。いつ文字を学ぶかということも、本人の自由で決めていいのではないか、とHさんの話から思うようになった。

 冒頭に、寺子屋の話を書いた。寺子屋は文字の読み書きと、そろばんの技術を学ぶところであるが、「行かない」という選択肢もあった。「学びたくない」と思えば、学ばずにいることもできた。その点が明治期以降の「学校」との違いだ。「学校」は《日本人としての一体性を持たせないといけない》という強迫観念に駆られているため、「無理やりでも学ばせよう」とする。Hさんはそんな学校のあり方に愛想を尽かしたわけだ。代わりにフリースクールで自分の興味に基づいて過ごすうちに、自主的判断から平仮名を学ぶようになった。

「渇き」による学びの重要性

 こんな文章がある。

喉が渇いたら、馬は自ら水を探します。そのときは、馬が真剣に、水の匂いを嗅ぎ分け、道を探すのです。水がいらない馬を、川に引っ張っていくことは、ムダなことであり、自己満足にすぎません。
渇きこそ、モチベーションの源泉です。
他人に与えられるのではなく、自分で感じ取るものです。
生きていれば、必ず渇くときがあります。
他人にモチベーションを上げてもらおうと考えた瞬間に、モチベーションの炎が、あなたの心から消え去ります。(宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』幻冬社、2009年、67頁)

 フリースクール[1]では、子どもを無理に学ばせようとはしない。

 フリースクールは「子ども中心の教育」が行われているところだ。子どもはいつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。休むのも自由であれば、何をするのも自由である。のんびり・ゆっくり過ごすことの推奨すら行う。子どもが「学びたい」と思うまで「待つ」姿勢を貫いているのだ。だからこそ、時間はかかるかもしれないが、宋の文章でいう「渇き」が起こるのだろう。渇きをいやすために水を飲むとき、馬は脇目をせずに一心不乱に飲み続ける。「渇き」が起きた時の学びもそれと同じであろう。

 日本初のフリースクールを設立した奥地圭子の著書に、『不登校という生き方』がある。この本の中に「進学先を選択する」という項目がある。フリースクールに通う子どもたちのうち、高校・大学への進学を希望する子どもについて書いているところである。奥地は「志望した人のかなりが高校や大学に受かっています。そしてどうやらついていけるようです。もちろん、受験をすると決めたら、少しは、または熱心に本人が勉強しています。しかし、学校に行っていた子と比べ、圧倒的に勉強量の差はある。それでも合格するし、ついていける」(『不登校という生き方』127頁)と述べている。その理由は何であろうか。



 これは、「ヒロベン」(広い勉強のこと)をしているからです。何をしていても広い意味で勉強になっています。テレビ、本、マンガ、新聞、ゲームなどでも、知識、認識は広がっています。そういった土台があり、必要な時に勉強をやれば身につくのだと思います。予備校に行く、学習塾に行く、家庭教師に来てもらうなどの方法を取った人もいるし、一人で勉強して合格した人もいます。

 ポイントは、本当に進学したいのかどうか、ということでしょう。入りたい目的がはっきりしていることも重要です。やりたいことには、自然にエネルギーが出るからうまくいきます。実際、わが家でも、東京シューレでも、それほど長い期間ではないですが、猛烈に勉強に取り組む姿をみました。感心したのですが、何のことはない、それまでのいっぱい休息し、遊び、充電している子が不登校には多いですから、いざ、本気でやろうという時には、すごいエネルギーが出るわけです。(『不登校という生き方』127128頁)


 宮台真司の描く自伝的エッセイの中にも、こんな話がある。高校三年生までは遊んでいた生徒の方が受験の直前になると、ずっとコツコツ勉強していた生徒の成績を抜くという話だ(『日本の難点』)。皆さんのまわりでも、そのような例があったのではないだろうか。

 重要なのは学ぶ気がないとき(「渇き」がないとき)は無理して学ばせないことである。だからこそ真に水を欲した際(学ぶ気力が湧いてきたとき)、「すごいエネルギーが出る」ことになるのであろう。

 さきほどのHさんにしても、「無理やりでも学ばせる」という「学校」のあり方を嫌い、不登校になっていた。Hさんが18歳になってから平仮名を勉強したということも、「渇きによる学び」が発動したからこそ成功したのだろう。それ以前のマンガやゲームといった「ヒロベン」が、「渇きによる学び」が起きた際、有効に機能し始めるのである。

 強制的に「学ばせよう」とすることに、それほど意義はないのではないか。それこそ、「無理やりにでも学ばせよう」というのが「学校」の「教育」なら、そんな「教育」なんて無くなってもいいのではないか。「渇きによる学び」さえあれば、「教育」なんてなくてもいいのではないか。

 最近の私は、こんな風に思うのである。

[1] 日本における「フリースクール」は、主として「不登校の子がいくところ」という認識である。けれど、本来的には「子ども中心の教育」が行われているところ、という意義がフリースクールにはある。強制的に学習させる「学校」ではなく、「自由」に過ごすところであるからこそ「フリースクール」なのである。「フリースクール」の実際例として、1985年に奥地圭子が作った「東京シューレ」やアメリカの「サドベリーバレースクール」などがあげられる。

貨幣説

 私は高校途中から、学校の持つ気持ち悪さを感じるようになった。そして、それを突き詰めていきたいと思うようになった。無意識的に大学の教育学部を受験したのも、そのためであろう。もともと私は法学部に行く予定で、教育学部には全く行く気がなかったのだから。

 私は学校に気持ち悪さを感じているが、周りに聞いてみると「学校を楽しいと思っている人もいる」事実に気づいた。この人たちは学校の「気持ち悪さ」「不愉快さ」を貨幣として扱っているのではないだろうか。

 「学校が楽しい」という人も、どこかで学校的あり方に気持ちの悪さを感じているはずだ。けれど、「友人と遊ぶためには、しかたない」と考えているのではないか。学校のもつ楽しさを享受するためには、「気持ちの悪さ」の代償も味わわないといけない。

 私はよくラーメン屋に行く。人気店は何十分と並んで待たないといけない。外は暑いし、腹も減る。でも、その「不愉快さ」を支払うことで、ラーメンの味を楽しめるのだ。「学校が楽しい」という人も、このラーメン屋と同じではないだろうか。

 吉本隆明は山本哲士との対談『教育 学校 思想』(日本エディタースクール出版部)において、次のように語っている。

小学校でも、学校は何が面白かったかといえば、そのなかでクラスメイトと遊ぶ遊び時間が面白かった。友達と遊ぶとか、いたずらするとかいうこと。授業時間はいつだって、きつい、かた苦しい、重苦しいという感じがあって、授業時間以外の休み時間とか、昼休みとか、放課後とかいうことで、友達と遊ぶ。学校で遊び切れないときは、それを家へもって帰って、近所までもち越して遊ぶ、それがぼくの学校のイメージなんです。(5頁)

 社会学者の上野千鶴子は、〈学校化社会は,誰も幸せにしない制度といえます〉(『サヨナラ、学校化社会』)と語る。学校が「楽しい」といっている人間も、結局は何らかの形で「気持ち悪さ」を感じているのではないか。それでは、学校は一体何のために存在していると言えるのであろうか?

 イリッチが数ある文献で訴えていたのは、文明が「制度」に頼ったものになっていく危険性であった。この「制度」は「専門家依存」ということでもある。「学校」も一つの制度であると相対化していく視点が必要であろう。

 1980年代に、数学者・森毅はこんなエッセイを書いていた。それは塾が自らの独自性を訴え、塾が学校と子どもを奪いあうようになる社会が必要だ、という内容のものである。のちに「不登校新聞」のインタビューに出ることになる森は、当時フリースクールの存在を知らなかったからこそ「塾」と書いていたのであろう。ここでいう「塾」を「フリースクール」として見るならば、時代が段々と森の訴えに近づいているように思える。

 教育という存在が、「学校」という制度に押し込まれたあり方を、変えていく必要があると思える。

不幸と愚行権

 生まれたことを「生の躍動」とみるか、「しかたなく、勝手にこの世に放り出される」とみるか。人生観は違ってくるだろう。

 後者の立場には2つがある。「無意味かも知れぬ生を楽しく生きる」というポジティブ思考もあれば、「生は無意味」で止めるネガティブ思考もある。

 残念ながら私は「しかたなく」派で「そこそこ楽しく過ごそう」という考え方なのだ。

 「不幸」といえば、そんなテーマで昨夜後輩のTと語り合った。「愚行権」はどこまで認められるか、というのがテーマである。

 他人に危害を加えない限り、たとえ愚かといわれるようなことをしても、それは個人の自由という考え。それが愚行権。他者に「ほっといてくれ!」という自由権に付随する考え方だ。あえて不幸になるという選択をすることも、「個人の自由」になるのかどうか。

 Tは「それが次の世代にも影響をもたらすなら、愚行権の範囲内とはいえなくなる」ということを主張。私は「その判断は恣意的なものになりやすい」ということを述べる。続けて「正しい/正しくないという区別は現代において行うことができない。人から不幸といわれるような生き方をするのも個人の自由だ」と語った。

 Tとの結論として<アダルトチルドレンなどは次の世代にも影響するから、「アダルトチルドレンのままで生きる」ということを愚行権の範囲内に入れることはできず、何らかの形で治療が必要だろう>と纏まった。けれど「治療」を行うとき、行政権力が個人の自由を半ば侵害する形で介入してくることになる。行政側が「この人は治療が必要だ」という判断を決めるようになると、無意味な人権侵害が増えることになるのではないか、という問題点も出てきた。

 ともあれ、個人の生き方に他者はなるべく口出しをしないほうがいいというのは事実であろう。個人の選択により「不幸な生き方」「面倒な生き方」「つらい生き方」をするのも、認めていくべきであろう。あくまで「本人が望むなら」という留保がつくのではあるが。

 さだまさしの「普通の人々」という曲を思い出す。

退屈と言える程 幸せじゃないけれど

不幸だと嘆く程 暇もない毎日

(・・・)

寂しいと言える程 幸せじゃないけれど

不幸だと嘆く程 孤独でもない

生きる為の方法(やりかた)は 駅の数程あるんだから

生きる為の方法(やりかた)は 人の数だけあるんだから

 「生きる為の方法」は人それぞれ。それがリベラリズムの考え方である。

反面教師的リーダー論

 昨日、2泊3日のゼミ合宿が終わった。異なる価値観を持つゼミ生同士で有意義な対話を行うことができたと思う。

 本合宿で私はリーダーシップの持つ矛盾を、若干ではあるが実感した。

 優秀なリーダー(本項ではゼミ長)がいる組織は、時にそのリーダーに「おんぶに抱っこ」状態になる。「リーダーに任せておけば何とかなる」。この状態が続くと、リーダーに従うものは何も考えなくなる。だってリーダーが全部やってくれるのだから。リーダーが優秀だと、他のメンバーの成長がなくなってしまうときがある。

 逆に、リーダーがダメだったときはどうなるだろう。「こいつでは不安だ」と心あるメンバーが自主的に動くようになる。リーダー自身「自分には能力がない」ことを自覚しているとき、自主的に動くメンバーの行動に好意的になり、結果的にリーダー以外のメンバーも成長していく。結果的にではあるが、組織全体が活発になるのである。

 リーダーが優秀で、しかも「自分には統率力がある」ことを自認しているとき、自分以上に優秀な人間に嫉妬を抱き、その人間を邪険に扱う。結局、組織が滅びることになる。

 自分は本当にダメなゼミ長であった。合宿中、毎朝寝坊して食堂スタッフにキレられていた。仕切るべきタイミングで仕切らず、どうでもいいことでリーダーシップを発揮した。けれど、ゼミ合宿は無事に終了。偉大な周囲のメンバーのおかげである。

 無論、自身の責任をリーダーが放棄してはいけない。そのとき組織は完全に崩壊してしまうだろう。けれど「俺には能力がない」、「自分はダメなリーダーだ」ということを自覚し、まわりにも相談していると、助けてくれる協力者がきっと見つかるはずである。その組織を必要とする人がいる限り、協力者はおそらく出てくる。

 結論。リーダーがダメダメな方が組織は発展する。組織のメンバーが危機感を抱くからだ。

注 ダメリーダーに対する危機感の結果、リーダー排斥運動が起きてしまう危険性はゼロではない。

Don't feel. Think!

 試験会場で、試験官が「どうせ皆読まないだろうから」と試験の規定を棒読みする。それが公平な試験にとって必要なことだと思われている。受験生はボーっと話を聞く。これ、「学校化」された典型的な学校と同じだと思う。

 「どうせ自分では学ばないから、俺が教えてやるしかない」と教員が一方的に話をする。生徒は教科書に載っているような話まで、黙って聞かなければならない。少なくとも、聞いているフリをしないと評価が下がる。

 これでは知識を学んでも、知識にだまされる「考えない」人間になってしまう。

 ブルース・リーは映画で言った。「Don'n think. Feel!」と(『燃えよドラゴン』)。

 いま、学校の中では教員や生徒の出す空気を感じ取ることを重視し、自分の頭で考えることが少なくなっている(O先生の言う「他人の頭に頼る」「自分の頭で考えることに自信を持てない」)。

 いまの時代、ブルース・リーの逆が必要だ。「Don't feel. Think!」と。

子どもの冒険の自由と、教育組織としての安全確保義務の軋轢。

 もうすぐ、私がボランティアをしているもう一つの組織の活動が始まる。中学・高校の寮のボランティアである。夏休みが終わり、新学期が始まるからだ。寮生の安全確保や見回りなどが仕事の内容。後は寮生と語り合って有意義な時間を過ごしている。

 いつも着任のたびに思うのは子ども(寮生)の「冒険」の自由と、教育組織としての安全確保義務との軋轢である。寮生は時々、かなりのムチャをする。行事前の徹夜、いまは減ったが寮の夜間抜け出しなどである。私はボランティアの立場からこういった行為を止めに入る。万が一、事故・怪我があった場合、学校組織としての責任が発生するからだ。けれど、それがときに寮生の「冒険」「挑戦」の自由を阻害しているように思うときもある。

 フリースクールの場合は少し異なるようだ。『フリースクールとはなにか』(NPO法人東京シューレ編、教育資料出版会、2000年)という本がある。フリースクール・東京シューレに通う子ども達の日常を綴った本である。サブタイトルの「子どもが創る・子どもと創る」にあるように、子どもの自発性に任せた活動を行っているのが東京シューレだ。子ども達が「やりたい」という自発性に基づいて、行動を行う。本書に載った内容を見ると、「危険じゃないのか?」と思うものもあった。それでも、「子ども中心の教育」を行うため、大きく抱擁する形で教育活動が日々行われている。

 無論、事故・怪我が起きたときのため、保険をかけたり、スタッフが付き添ったりしているのだろう。けれど、万が一事故が起きたとき、マスコミ沙汰になり「あのフリースクールは何をやっているのだ」という非難にさらされてしまう。

 私のボランティアをしている寮は、安全確保を何度も呼びかけ、事故を未然に防ごうとしている。

 教育において難しいのは、ここに書いた内容であろう。かつて親友のOがゼミにおいて「性教育でも、間違いから学ぶことが重要だ」と発言したところ、顰蹙を買ったと聞いた。「失敗から学ぶ」のは当然重要な考えなのだが、例えば実際に「妊娠中絶」を経験して学ぶというのはいかがなものか、とは思ってしまう。けれど、考え方としえては「失敗から学ぶ」という方向性は成立することであろう。いま参議院議員の「ヤンキー先生」は、公約として「子どもたちが安心して失敗できる社会に」と言っていたことを思い出す。

 教育組織としては子どもが失敗(事故や怪我)しないようにするが求められるが、失敗することから子どもは多くを学ぶ。子どもの冒険の自由とは、この「子どもは失敗からも多くを学ぶ」ということを理論化したものだ。また子どもが自発的に行動を行っていく、ということにもつながる発想である。大人が「安全確保」を行い、失敗をする危険性から子どもの行動を阻害した場合、子どもの成長するチャンスがつぶされてしまうのではないか、と思う。

 私の行っている寮は中学生と高校生の寮だ。ある程度、大人である。安全確保をするのは当然だが、もう少し寮生の自由の幅を広げてあげてもいいのじゃないか、と思うことがある。

 

 けれど、さきほどの「妊娠中絶」の話ではないが、「大失敗」的な失敗をしないよう、大人は子どもに接していくべきでもある。子どもの冒険の自由と教育組織の安全確保義務は、単純なゼロサムゲームではないのだ。片方を求めれば、もう片方が立たなくなるものではない。折り合いをつけながら、バランスを取ることこそが必要なのだ。どの程度まで「冒険」を認めるか否か、という点である。

 この問題はもう少し考えていきたい。

追記

 『千と千尋の神隠し』という映画がある。両親を助けるため、千尋は温泉宿で働くなかで、神様やカオナシのおこす問題を解決していく、というストーリーである。千尋の「冒険」が、物語を成立させている。

 重要なのはこの千尋の「冒険」は、両親には一切見えていないということだ。教員や、地域の大人にも見えていない(別の世界の話だから、当たり前といえば当たり前)。子どもの自主的な冒険はそもそも大人には見えないものではないだろうか。同じく宮崎アニメの『となりのトトロ』も、メイとサツキ姉妹の「冒険」はトトロやネコバス同様、大人には見えていない。

 おそらく寮の中でもフリースクールの中でも、大人(教員やボランティアの学生)には見えない「冒険」が繰り広げられていることだろう。表面化に出た「冒険」のみを、大人が認識する。

 本稿の中で「子どもの冒険の自由と、教育組織としての安全確保義務の軋轢」を問題にしたが、そもそも子どもは冒険をどんなに「安全確保のため、禁止!」されたとしても、大人の見えないところで冒険してしまう存在なのではないかと思っている。ちょうど、高校生のときの自分のように。

個への対処と、全体の変革の矛盾。

 不登校という「個」への対応を、フリースクールは行っている。

 けれど、これは時に宮台真司のいう、スクールカウンセラーの矛盾にもつながる。個への対応をすることは、時に全体の変革の妨げとなり、現状は変わらないという矛盾である。

 どういうことかというと、スクールカウンセラーは「鬱っぽいんですけど・・・」という生徒への対応を行う。そのために、うつ気味の状態回復のプログラムを個人に提案したり、じっくり話をきいたりする。それ自体は個の対応として重要なことだ。けれど、スクールカウンセラーは鬱の原因を作った学校や家庭それ自体への対処を行うことは(ほとんど)ない。

 最近はましになったが、教員とスクールカウンセラーの連携が取れていないところもあった。そういう場所では「教師は教える仕事、スクールカウンセラーは治す仕事」と単純に仕事の割り振りが行われ、スクールカウンセラーの声が教員に届かない状況があった。スクールカウンセラーが個にいくら対処しても、学校や家庭自体が変わらないならばいつまでたっても状況は好転しない。

 この矛盾に対し、2つの考え方がある。1つは「個」に接し、対処して「治った」子どもが多くなると、社会システム自体が変化するという考え方だ。つまりスクールカウンセラーによって「治った」子どもが増えてきたら、自然と精神的に悩む子どもが少なくなる、という考え方である。これには批判ができる。病院の存在である。病院で治療しても、その病気やけがの発生が減るということはない。

 もう1つの考え方は、「個」への対処では限界がある分、システム自体を変えるという発想だ。フリースクールの例で言えば、個別のフリースクールの対応のレベルから次の2つの活動に広げていくことが挙げられるだろう。①全国組織であるフリースクール全国ネットワークを結成し、政策提言(既存の学校システムへの変革)や予算請求などを行いやすくし、より広域での活動を行うということ。②東京シューレやきのくに子どもの村学園のように、学校システムそれ自体へ参加し、「現在の学校制度内でもフリースクール的教育実践は可能なのだ」示すこと。この2つである。不登校の子どもという「個」への対応にとどまっていると、目前の子どもしか関わることができない。けれど、システム自体の変革に目を向けていくと、より広範な子どもと関わることができる。

 いま不登校は126000人いるといわれている。学校システムや教育システムの変革が必要となってきているようである。個別のフリースクールでの「個」への対応が重要なのは言うまでもないが、より広範な対応を行うため学校/教育システムの変革を①や②の方法で取り組んでいくことがこれからさらに必要になってくると考えられる。

幸せになれないのも芸のうち。

 古来より芸術は「ハッピーな人」によって担われてきたわけではない。むしろ逆である。「アヴァンギャルド」とはいい言葉であるが、周囲より「変人」・「風変わり」・「可哀想」と思われてきた側面が強い。今でさえ、アヴァンギャルドつまり前衛芸術家は「アンタたち、そんな変な絵を描いてて何が楽しいの?」という視点に絶えず晒されている。一昔前のアングラ演劇も、全く差別されない芸術だった、といえば嘘になる。

 現代では高い評価を持つ「能」も、然りである。河原者(かわらもの)によって担われてきたのが能である。河原者とは、家がなくて河原に勝手に住まいを作って住んでいる人のことを言う。現代でいえば、そうホームレス。能の演者は被差別民であった。

 ある意味、差別されるという属性を持つからこそ、芸術を行えるように思える。差別され、世間一般的な「幸せ」をつかむことができないからこそ、芸術に打ち込むのだろう。

 幸せになれないのも芸のうち、である。幸せになる道はたくさんある。「にもかかわらず」、幸せになれない芸術の道を行く。だからこそ、いい芸術が生まれるのだろう。幸せすぎる人間は、そもそも芸術に手を出さない。出しても途中で辞めてしまう。

 ゴーギャンは希有な人間だ。人生途中から絵を描きはじめ、生涯を絵に賭けた人物だからだ。ゴーギャンは株仲買人として成功するが、途中から本気で画家を目指す。生計を立てられないから妻子と別居。どんどん貧しくなる。南の島に夢を求めてタヒチに行くが、そこでも自分は異端扱い。絵を描いてパリに戻っても、そこに馴染むことができない。仕方なく、再びタヒチに。最愛の娘の死の知らせは島で聞くことになる。悲嘆するゴーギャン。彼は遺書のつもりで絵筆を握る。最高傑作「我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへいくのか」がこうして生まれるのである。

 ゴーギャンは、絵を描けば描くほど不幸になった。けれど不幸だからこそ、恐ろしいほどの名画を残すことができた。いま竹橋の美術館で観ることが出来るのも、彼が不幸であったためである。ありがとう、ゴーギャン。

 

 ゴーギャンの生涯を見てみると、改めて「幸せになれないのも芸のうち」との認識を強くする。

 

 幸せになれないのも芸のうち。

 組織に馴染めないのも一種の才能。

 私がブログを書くのも、幸せだから書くのではない。書くことでつかの間の幸福を感じられるから書くのであって、もとが幸せだから書いているわけではないのだ。「悩み」があるからこそ、ブログを書いているのだろう。

 しかし、何事にも例外がある。ルーベンスがそうである。彼は生涯、ずっと幸せな生活を過ごす。絵も生前から好評価。うらやましい限りだ。

決意と持続の関係性。

 サークルで、なかなか青っぽい話をした。いま早稲田にいる意味は何か? 自分は将来、どのように生きていくことが正しいのか? なにを今決意して、社会に出るべきか?

 「青っぽい」というのは、青年っぽい、ということだ。現実を見据えないからこそ、言えることでもある。江川達也のいわく「世の中の人は、これほどまで自分のことしか考えないのかと知った」。しょせん人は、色と欲。言ってしまえばそれまでだ。

 しかし、「あえて言う」ことに意義がある。あえて、自分の将来についてを話し合うことに意味があるのだ。

 

 一通り話し終わった後、私は発言した。

「いま言った話を、40年経っても自覚できるかどうかが大事なんじゃないか」

 まわりが静まった。「持続」こそが難しいのである。

 決意を持続するのどうやればよいのだろう? そこでは語らなかったが、ここで書いてみることにする。

 

 決意とは、持続しないからこそ決意なのである。三日坊主に終る人間は、「次こそは、絶対挫折しない」といくら強く決意しても、やはりすぐに挫折する。

 挫折するからと言って、「挫折しないように強く強く決意する」ということで対応するのは切りがない。

 学校現場で言われる「心の理解」も同じこと。子どもの行動をわかってあげられなかった、「もっと心を理解しよう」。やっぱり駄目だった、「もっと心を理解しよう」。無限ループである。

 ではどうするか? 「挫折しない」という決意をする前に、「決意は挫折するものだ」との認識から入ればいいのである。それから、「挫折しかけた時に、再び決意する方法」を考えれば良いのだ。その方法は人それぞれ。気のいい仲間から励ましてもらったり(「恋人」だとなおグッド)、毎朝新たに決意したりするのを習慣にしたりしたらいい。

 重要なのは、「そもそも決意は挫折するものだ」と諦めて認識し直すことである。世の中の「無限ループ」を解除する方法は、「そもそも無理なのだ」とあきらめることから始めるべきだ。

 「心の理解」なら、「心の理解なんて、完全に行うことは出来ない」と諦めることだ。「心の理解は出来ないけど、その子どものためになる授業をしたい」などと認識し直すことである。

 無理なことは、無理だと気づくこと。いい意味の「あきらめ」が必要である。

 先週も、バイト先でタイムカードを押し忘れてしまった私。「もう押し忘れない」と決意する前に、手帳に「タイムカード」と書いておくことにしよう。

「学校化」された私。

 何故だろうか。

 どんなに努力をしても、どんなに「考え方を変えよう」と意識しても、自分の学歴主義を打ち消すことができない。

 今日も、本屋で『東大式 絶対情報学』との本を無意識で購入していた。「東大」という言葉に、まだ体が反応してしまう。

 早稲田大学生は、「東大を諦めた」組が多い。「負け組」認識をもっている側面もある。だから無意識のうちに、「東大」の名に反応してしまう。

 フリースクールやオルタナティブスクールに心惹かれながらも、「東大」というブランド・学歴信仰から逃れられていないのが私である。

 社会学者・宮台真司の「学校化」定義。《家や地域までもが学校的価値で一元化されることを私は「学校化」と呼びます》(『これが答えだ!新世紀を生きるための108108答』281頁)。私の頭の中も、「学校化」されてしまっている。

 卒業論文を書く段になって、自分がいかに「学校化」された存在であるか、実感するようになった。

 中学では、私は「優等生」であった。優等生特有の「優等生シンドローム」も発症していた。教員の質問に、真っ先に答える能力。言われたことを、疑わずに実行する力。

 高校に入って、状況が変わる。周りは自分以上の優等生ばかり。中学と同じやり方では太刀打ちできない。私は、中学のとき以上に「優等生」になろうと決意した。

 わが母校では勉強ができること以上に、高校の創立の精神を求めていることが重要視されていた。今の時代、珍しい学校である。校歌を歌い、「真の学園生とはどのような生徒か」真剣に語り合う。無理をしてでも、学問と「精神面」を鍛えようと決意した。「俺はすごいんだ!」と言いたくて、生徒会にも入った。翌年には生徒会長に。けれど、母校では生徒会長の権限は行事の実行委員会よりも小さく、意気消沈。「何のために生徒会はあるのだッ!」と、埃っぽい生徒会室で泣き叫んだ日々もあった。 

 生徒会での自己実現を諦め、受験勉強で「俺は勝った!」と言おうと思い立つ。ちょうどその頃、クラスから見放される事件が起こり、ますます受験に専念した。休み時間は耳栓を付けた。昼食は一人で菓子パンをかじった。他者と折り合わないために。けれど、受験は第五志望にしか受からなかった。

 結局、私は「優等生」になることが出来なかった。中学以来の「優等生気質」はありながら、「優等生」にはなれない。悔しさと、惨めさ。高校の卒業文集に映った顔写真。私だけが笑っていない。

 結果的に悟ったのは、人と比べてもどうにもならないということ。けれど、「人と比べる」ことを私の身体に刻み込んだのは、学校ではなかったか。学校のシステム自体が、人と比べることを要求している。私はそのシステムに、すっかり「学校化」されてしまった。今もこの傾向は残っている。「東大」という言葉への、無意識的反応がそれである。

 ひょっとすると、私がフリースクールや脱学校論に関心を持つのも、「学校化」の成せる技ではないだろうか? つまり、東大に行けなかったという私のルサンチマン(恨み)が、学歴主義に反するフリースクールに心惹かれるきっかけとなっているのではないか、と思うのである。

 ただ、自分がいかに「学校化」された存在であるか、気づけたことだけでも、大学に行った意味があったように思う。早稲田の教育学部に行かなければ(もっといえば、脱学校論についてをK先生の授業で聴かなければ)、このことを自己認識することはなかったであろう。

 人生は、誠に奇妙なことである。第一志望に行くことだけが、幸福なのではない。私にとって、早稲田の教育学部は第五志望。夏に諦めた東大を入れるなら、実に第六志望となる。

 …自称「三流エリート」、石田一のモノローグでした。

 

*宮台真司『これが答えだ!新世紀を生きるための108108答』朝日文庫、2002年。

ゴーギャン展に思うこと。

 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。

 何の問いかけであろうか。これは、ゴーギャンの最高傑作とされる絵画の題名である。ゴーギャン自身も「私は、この作品がこれまで描いたすべてのものよりすぐれているばかりか、今後これよりすぐれているものも、これと同等のものも、決して描くことはできまいと信じている」と述べている。

 友人のOに薦められて、竹橋の東京国立近代美術館のゴーギャン展を昨日見てきた。ぐるぐる館内をめぐった後、冒頭に書いた「我々は・・・」の前で私はノートを広げた。目の前に広がる光景を見つつ、心に浮かぶことを書き綴っていったのだ。

 じーっと見るなかで、生命の持つダイナミズムを感じた。生命はつねに動き続け、静止することがない。生命の「動」についてを実感していった。画中の少女はそのうちリンゴをかじり終えるだろうし、水浴している女性はやがて水浴をやめる。今日赤ん坊であっても、そのうち死を目前にした老人となる。生命は「変化」「動」の連続である。本絵画全体のあいまいさは、人間生命のアナログ(連続)性を示してもいるようだ。

 「美」もやがてうつり変わる。生命の「動」、連続性。それを前に、座り込んで佇むのも必要だが、その時間もやがて移りゆく。

 熱帯にいても文明圏にいても、生老病死からは逃れられない。ゆえに、そのことに絶望するよりは、「変化こそ生命」と見るほうがよいだろう。

 私のまわりで本作を見ている人々は、次々と場所を移動し、次の作品へと移っていく。とどまり続けるものは誰もいない。この「動」こそが生命である。

 ゴーギャンは生命の「動」を、絵画という「静」の技法で示そうとした。そこに無理があるといえばそうだが、いまにも語り出しそうな人物たちの姿を見ていると、やはり「動」がこの絵にあふれているように思う。

 

 変化こそが生命だ。「万物は流転する」のである。ただ、その「流転」もエヴァ(旧約聖書の人物。イヴともいう)が禁断の木の実を取ることから始まった。それがなければ、人間は「静」の世界、無変化の世界しか生きれなかったであろう。

 そういえば、ゴーギャンが来たときのタヒチも、「文明化」の波が始まっていたという。その生々流転する「動」のきっかけは、すべてエヴァの行動からはじまった。本モチーフには、生老病死という「動」の苦しみがもたらす人間の宿命と、それゆえの「ひとときの輝き」「現在の肯定」という二面性が描かれているようだ。

 株仲買人として成功した後に絵を描き始め、35歳で画家になる。収入が著しく減り、妻に逃げられ、絵を描くことだけが彼の生きがいとなる。フランスから出て、南太平洋のタヒチへ。彼の生涯自体、変化の連続。本作は、貧困・健康状態悪化・娘の死という、ゴーギャンのどん底時代に描かれた。

 万物は流転する。変化こそ生命。なら自分も、いまとはちがう何かになれるはずだ。変化を楽しむことが人生を楽しみ、充実させることとなる。

 「変化する主体」としての人間観は、ルーマン以来の教育学のテーマだ。

 オートポイエーシス(自己塑成)という人間像を私は思い出す。勝手に変化するとの動的生命を、私は大事にしたい。よもや教育がこの生命の「動」のダイナミズムを殺してはいないか、と。

これからの時代とヴァルネラブル

 『ボランティア もう一つの情報社会』(金子郁容著)という岩波新書がある。結末部分に、ボランティアに関わる人間について、「ヴァルネラブル」という言葉で説明をする箇所がある。

 ヴァルネラブル。英語で書くとvulnerable。「傷つきやすさ」「弱々しさ」を意味する。ボランティアに関わる者は「そんなことをして、一体なんになるの?」「所詮、自分のためでしょ?」という冷たい視線にさらされる。〈にもかかわらず〉、行動し続けられるかどうかが、ボランティアには求められるのだ。周囲から必ずしも評価されるとは限らない。ヴァルネラブルだ。けれど、行動し続けることがボランティアには欠かせない。

 金子郁容のメッセージは、私の生き方にも繋がってくる。来年、大学院に進学する私。研究者を目指している。おそらく、修士課程1年目はフリースクールのボランティアとアルバイトをして生活することとなる。それ以降も、どこかの高校の非常勤講師をしながら自分の研究を進めることとなる。大学に定職を得ても、現場の学校を知るために非常勤講師をやり続けたいと思っている。

 この生き方を選択した場合、私はどこにいっても「はみ出し者」となる。ボランティアでフリースクールへいくと、毎日来ているスタッフと子どもが存在する。そのフリースクールの「常識」を自分だけはいつまでたっても知ることができないかもしれない。ヴァルネラブルだ。

 高校の非常勤講師。クラスを持っていもいなければ、学校集団に馴染みきることもない。ヴァルネラブル。

 大学院に行くということは、まわりのクラスメイトが社会で働いているのを横で眺めつつ、他者には評価されにくい研究をやり続けるということだ。「俺は、一体何をしてるんだろう。社会に出たほうがよっぽどいいんじゃないか」。ヴァルネラブルである。

 私はおそらく、しばらくの間は特定の集団に帰属し、フルタイムで行動するということはないはずだ。曜日ごと、あるいは時間ごとに参加する集団が変わってくる。どこにも落ち着けないということで、弱々しい気持ちになる。「俺はこれでいいのだろうか?」と。

 自分で選んだ道である。この生き方はヴァルネラブルであると自覚して、「わが道を行く」決意で日々進んでいくしかない。支えになるのは自らの哲学と信念である。

 考えれば、共同体が生きていたころは、ヴァルネラブルな生き方をする人間はあまりいなかったであろう。「こう生きればいいんだ」という大きな物語が生きていたために、自らを「弱々しい」立場に落とす必要性は必ずしもなかったのだ。

 今の時代に、特定の集団(会社、公務員など)に属さずに生きる人々は多くいる。その人たちはフリーターと呼ばれたり、ボランティアと呼ばれたり、大学院生と呼ばれたりする。「あえて」特定の集団に属さない生き方をする際は、ヴァルネラブルな存在であることを自覚して、生きることが必要となるような気がしてならない。

追記

 湯川秀樹は、京大のいろんな研究会に参加しまくった、という経歴を持つ。文学など、専門外のところにいき、頓珍漢な発言をするということで有名人だったのだ。ノーベル賞学者の隠された一面である。

 なぜ湯川は自分の専門外の箇所に顔を出しまくったのだろう? ヴァルネラブルな生き方を実践していたのかもしれないと私は思う。

 昨日、フラッと前を通ったことをきっかけに「海洋酸性化」についてのシンポジウムに参加してきた。まわりは理系研究者ばかりのようだ。文系の学部生など、ほとんどいない。発言内容も、化学式が登場しよくわからない。まさにヴァルネラブルな状況だった。けれど、その状況に耐えていると、少しずつだが海洋酸性化という問題について理解できるようになった。

 湯川にとっても、専門外の場所に出るのは私と同じ発想に基づいていたのではないかと思うのである。あえて自分が弱々しくならざるを得ない場所(専門外の研究会)に参加するという態度。ヴァルネラブルを恐れない姿だ。この姿勢を貫いたために、日本人初のノーベル賞受賞に繋がったのではないかと思うのである。

再記

 考えてみれば、不登校という選択もヴァルネラブルな生き方であるように思う。あえてメインストリームを外れるという選択。そしてその選択に伴うデメリットでさえも気にせずに乗り越えていく姿(高検に受かって有名大学に行く人もいる)は、いま私の持っている閉塞感を払拭してくれるのだ。

ヴァルネラブル、という言葉には「被害者意識」という意味がある。つまり、つねに「負けた側」を自覚する。ヴァルネラブルな発想が「ひがみ」にならないよう、常に気をつけねばならない。

集団の健全性は、内部批判者への対応によって決まる。

 昨日、サークルの話し合いに参加。議題は、118日の早稲田祭企画について。企画の方向性や意義、今後のスケジュール等など。大体2時間半かかった。これから毎週続く。いつ故郷に帰るべきか、毎年タイミングを計るのが難しい。

 本サークルの特徴は、方向性を定める3〜4年生の「首脳」メンバーが、時を追うごとに減っていくという点だ。十数人から始まり、いまはヒトケタ。「次は自分がいなくなるかも…」との不安を、今でも持っているのが私である。

 そのサークル内では「来ないメンバーを何とか来れるようにしよう」という声が強い。以前の私はその声に同調する側だった。けれど、最近は疑問を感じている。無理にサークルに来させることに、いかほどの価値があるのか? 周りの「首脳」は来れなくなったメンバーが戻って来て、「僕が悪かった。ごめん」というシナリオを描いているようである。

 

 あれ、こんな構造、何かに似てるぞ? そうだ、学校組織だ。

 『学校が自由になる日』の内藤朝雄の文章を思い出す。日本の学校共同体の中では いじめられた側が「私が悪かった。性格を直すから、仲良くして」とすりよるため、陰惨な いじめが行われることがあるという。

 いじめられているなら、学校という集団に来ないという「不登校」という選択肢もある。けれど、日本の子どもたちは虐められるのが分かっていながら、学校に行ってしまう。「学校に行かないのは悪いことだ」と素直に信じている者も多い。 

 不登校は社会の健全性のバロメーターではないか。そんなふうに思う。いじめという「人権侵害」のある集団に、「NO!」を突きつける個人がいるかどうかが重要なのだ。理不尽な苛めがあっても、誰も不登校という選択肢を選ばない。そんな集団は個人に際限のない人権侵害を行ってしまう、「腐った」組織である。不登校を選んだ子どもがいるという事実が、集団から逃れるという選択肢の存在を、集団内メンバーに自覚させることになる。

 不登校は悪いことではない。不登校の存在が「不登校という道がある」と他の構成員に示すことになるからだ。

 不登校同様に、サークルに来れなくなったメンバーの存在を認められる集団は、「健全である」という評価をすることができるのではないか。皆が一律に同じ行動をする。そんなことは不可能だ。集団の力は個人よりも大きい。故に、しばしば集団は個人に人権侵害を行う。人権侵害が存在していても、「集団に参加し続けないといけない」と思うことが、さらなる侵害を招く。いじめの構造だ。

 集団の力は、個人よりも強い。そんな中、不登校という存在は「集団から出ることは可能なのだ」という、強いメッセージを他の集団内メンバーに示すことができる。

 学問の世界では、論文の評価は〈批判が来るかどうか〉で決まる。よい論文には、必ず反論がある。反論・批判がない論文は最悪の論文だ。同様に、集団に対して構成員から批判がないのは不健全な組織であることが多いのではないか。つまり、通常の認識とは逆に、学校における「問題児」や「不登校」の存在は、学校が「健全」であることの証明であるのだ。逆転の発想である。

《全員が》、《一人も残らず》、《一丸となって》、《団結する》。学校的共同体特有のキーワードである。本当に人々が「心を一つに」することはあるのだろ うか? 幻想である。内田樹は〈幻想であっても、幻想があると考えることに何らかの意味があるならいい〉というだろう。けれど、この問題に関し『サヨ ナラ、学校化社会』で上野千鶴子(内田の「天敵」)が語ったのは、「学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります」(57頁)というメッセージであった。「学校化社会」とは、学校的共同体がもたらす「幻想」の別名である。

 無論、組織によっては本当に皆が「心を一つに」しているところも存在するかもしれない。けれど、それを当然視していると、集団が個人に持つ暴力性に対し、無自覚になってしまう。「心を一つにするのが当然だ」と、集団に批判的な個人を攻撃することとなるからだ。

 まとめをするなら、こうなるだろうか。集団は個人に対し、しばしば人権侵害を行う。そのため、「集団から逃れることができるのだ」という道(不登校など)を示している集団は、個人の人権侵害を極力減らすことができる。それゆえ、「健全である」といえる。逆に集団から逃れることができない組織(あるいは集団から出るということを誰も行っていない組織。不登校のない学校など)は、個人に対し人権侵害を行っていることがある。

 離脱者がいる集団こそ、健全な集団であるといえるのだ。

「学校じゃ教えてくれないこと」批判

 よく、「学校じゃ教えてくれないこと」というキャッチ・フレーズを耳にする。先日買った本の帯紙にもそう書かれていた。「学校じゃ教えてくれないこと」というタイトルのテレビ番組もあった。『教科書にない!』という漫画もある。「学校では教えてくれないけど大事なこと」というような本を読んだこともあった。

 「学校じゃ教えてくれないこと」という言葉には、「もっと役立つことを学校では学びたかった」という思いが込められている。そんな思いを哲学的にはルサンチマンという。学校に対する「恨み」ということだ。この「恨み」はしかし、学校それ自体への批判ではない。「学校制度でこんなことを教えてほしかった」「もっと役立つことを教えてほしかった」との、ムシのいい思いが感じられる。学校で「教える」ということ自体には何も批判をしていない。また「教えられる」ことを無条件に「善」としている点も気になる。

 問題なのは「教えてもらいたい」「教えられたい」という受身の感情、「奴隷根性」が見え見えである点だ。自分で学ぶ、という自発性・能動性が感じられない。思想家・イリッチは『シャドウ・ワーク』などの著作を通して、「自分でやること」「自分で作り出すこと」「自分で学ぶこと」の大事さを訴えた。他者を頼りにする姿勢(ここでは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」の様子)は本当の人間のあり方ではない。

 「学校じゃ教えてくれないこと」。この言葉、脱学校論者からみれば「当たり前じゃないか」と感じる。学校は何も役立つことを教えてくれはしない。そんな期待をしてもいけない。来年には私は「教員免許」を入手できるが、「先生」といわれるほど人格は高くない。「人生において大事なこと」を教えられる自信は全くない。

 人生で大事なことなんて、学校が教えてくれるわけないのだ。自分で学ぶしかない。そんな当たり前のことを、なぜ今さらキャッチ・コピーに使うのだろう。

 私は高校までは「優等生」であった。早稲田という場所は「優等生」を崩してくれる場所である。だいぶ不真面目になったなあ、とつくづく思う。

 こんな話を、非常勤講師をしたとき、中学・高校でしたいものだ。

追記

 イリッチの話を敷衍するなら、学校の「部活動」というものにも再考が必要だ。

 部活動は「勝利主義」的。勝つこと・プロになることを子ども達に押し付ける。「勝てなくてもいいから楽しくやろうぜ」とは決して言わない。「どうせ甲子園に出れるわけないんだから、紅白戦を毎日やって、楽しくゲームしようよ」という野球部のキャプテンは、おそらく吊るし上げられる。

 日本で健康のためのスポーツが根付かないのは、「部活」による「勝利主義」の存在が大きいのではないか。ゲームそれ自体を楽しむのではなく、「大会に出る」「根性をつける」「努力の大切さを学ぶ」という、汗臭い目標の達成が「部活」の目標になっているからだ。

 イリッチは「レコードよりもギターが、教室よりも図書館が、スーパーマーケットで選んだものよりは裏庭で取れたものの方が価値があるとされる」(『シャドウ・ワーク』52頁)社会の誕生を待ち望んだ。スポーツも同じだ。勝利することなど「結果」として得られるものよりも、過程を大事にする姿勢(「楽しむ」ということ)の重要性をイリッチは教えてくれる。

これからの時代における大学受験の意義

 受験勉強は「学ぶ力」を学ぶ絶好の機会である。

 もはや、学歴にはほとんど意味が無くなった。いまの早稲田生は一昔前の早稲田生より学力が大幅に落ちている(私に合格通知を出した時点でそれはいえる)。大学全入時代に入り、かつての有名大学も人をとるために必死だ。現に我が早稲田は大阪や佐賀にあらたな付属校を作っている。昔は早稲田大学「である」だけで人がきていたのが、学生募集を「する」ことがなければ人を集められなくなったのだ。

 そんな時代でも、受験生は存在する。彼らは何のために学ぶべきなのか?

 私は、受験勉強が「どう学習するといいのか」を習得する機会になれば良いと思う。

 野口悠紀夫がいう通り、これからは社会人になったとしても勉強をしなければ生きていけない時代になった(『超・勉強法』)。いま大企業でも倒産/リストラをする時代に入り、人生後半から急に無職になる可能性が見えてきた。そんなときでも人が生きるには勤め先を見つける必要がある。再就職をすることを見越した上での人生プランが必要となってきた。

 そんなとき、受験勉強を通じて「こういうふうに学習すればよい」と知っているのといないのとでは雲泥の差が出てくるであろう。人によって効果的な学習方法は様々である。ある者は暗記カードを作る方が記憶を強化しやすいであろうし、ある者はサブノートにまとめることの方が性にあっているであろう。ちなみに私の場合、学びたいテーマを扱った書籍を何冊も通読することによって学習をしている。受験の日本史・国語・英語を学ぶ際にとった方法だ(私立文系の私はこの3科目だけでよかったのである)。

 日本史の場合、『石川 日本史の実況中継』という5冊本と『超速!日本史の流れ』シリーズ3冊をそれぞれ3回くらい通読、その後『菅野 日本史の実況中継』という古いシリーズを2度通読した。それだけで頭の中に日本史の流れがインストールされた気がする。この後、私は問題集を5冊くらいやり受験を迎えたのである。

 問題集こそやらないが、現在の私の教育学ないし社会学の学習は上記をさらに徹底する形で行っている。

 どのみち、これからの我々はずっと学んでいかないといけない。だからこそ、自分にあった学習スタイルと学習習慣の確立を大学受験で行う機会となると良いと思う。

ひとときのうちに

 昨夏の介護体験。新宿にあるデイサービスセンターで1週間ボランティアのようなことをした。1分前に話した内容を再度してくるお爺さんが印象的だった。どうせこの人たちは自分のことを忘れてしまうであろう。なら、介護を行うやり甲斐はどこにあるのか? 疑問に思った。

 介護体験レポートを書く際、疑問は少し晴れた。たとえ忘れたとしても、介護の際の「ありがとう」の言葉は私の心に残っている。さりげない利用者の笑顔が、脳裏から離れない。ああ、介護のやり甲斐はここにあるのか! レポートに私はそう書いたのであった。昔観た映画『博士の愛した数式』の「ルート」の思いがようやく分かった。

一粒の砂に 一つの世界を見

一輪の野の花に 一つの天国を見 

掌(てのひら)に無限を乗せ 

一時(ひととき)のうちに永遠を感じる

 この映画はウィリアム・ブレイクの詩でしめられる。80分しか記憶を保てない「博士」。「博士」にとって、少年「ルート」との出会いは常に初対面。「博士」の記憶に「ルート」とのやり取りは残ることはない。けれど、「博士」と過ごした時間はまぎれもなく存在している。「ルート」だけでなく、「博士」の中にも(記憶では残らないが、やりとりした事実は残る)。だからこそ「ルート」は、「博士」と過ごす「一時のうちに 永遠を感じる」のであった。

 先週まで続いた教育実習中、社会の授業をしていて私はふと次のことを思った。〈子どもは今日の授業の内容をどうせ忘れてしまう。それなのにいま授業をすることに如何ほどの価値があるのだろう?〉。現に私は中学校時代の授業について覚えていることは少ししかない。それこそ膨大な量の授業時間があったはずだが…。どうせ忘れるのに、なぜ授業をするのか。

 しかし、子どもと関わったプロセスやひとときは間違いなくこの世に存在したのである。未来に覚えていることも大事だが、今というこの瞬間を輝かせていく営みとしての教育も重要なのではないか。ちょうど、昨夏の介護体験や『博士の愛した数式』と同じ図式となる。

 人との出会い。たとえ忘れ去られたとしても、出会い交流したひとときは私の生命の中に残り続けるのだ。

 教育の無意味性にイヤになったときは、このことを思い出そうと思う。別に教育が将来何の役に立たなかったとしても、生徒同士や教師―生徒との出会い、藤原氏のいう「ナナメ関係」を結べたという事実やその交流の中で生じた〈輝き〉を大切にしていきたい。

2

書評・映画

ニール・ポストマン 小柴一訳『子どもはもういない』(1995年改訂1版、新樹社)*原著は1982

 かつてPh・アリエスは『子供の誕生』において、「子ども」が大人社会の中で認識されたのは近代に入ってからであることを提示した。ポストマンの書いた『子どもはもういない』はアリエスのこの主張をさらに発展させたものである。

 本書の前半で、ポストマンはアリエスや他の思想家が訴えてきた事柄を用い、「子ども」「子ども期」が近代になって生まれてきたことを提示する。どうして「子ども」概念が出てきたか? ポストマンは活版印刷機の登場を用いて説明する。手書きで文字を読み書きしていた時代において、大部分の大人は識字ができなかった。そのため口頭によるやりとりが行われることになる。その中では「子どもに言うべきでない話題」などの「秘密」を隠すことができなかった。現在では「子ども」といわれるような人間も、その秘密をふつうに見聞きしていた。

 活版印刷の発明は、文明のあり方を変えた。人々の仕事において、文字を使用する機会が圧倒的に増えた。役所に提出する文書、契約書などなど、書面で仕事のやり取りをすることも出てきた。活版印刷技術は、人々に読み書きできる能力を必要とする。けれどこの能力の習得には長い時間が要る。まだ文字を習っていない人間を隔離し、「学校」で教えなければ。人々はこう考えるようになり、結果として「子ども」が誕生した。

印刷技術の発明後、子どもは大人になるものとされ、かれらは、読むことを覚え、活字の世界にはいりこむことによって、大人にならなければならなかった。そして、それをなしとげるためには学校教育が必要だった。こうして、ヨーロッパ文明は、(古代以来)学校を再びつくりだした、しかもそうすることによって、子ども期をなくてはならないものにしたのである。(pp59-60

*(  )内は石田。

 ポストマンは「子どもの誕生」を活版印刷機が元になったと説明する。時代は進む。活版印刷により誕生した「子ども」が消滅するところまで、時代は進んだのだとポストマンはいう。ではそのきっかけとなったのは何だろう? ポストマンは電気による通信(象徴的な意味ではモールス信号)をあげる。この進化系であるテレビが、「子ども」を消滅させてしまったのだと説明するのだ。

 テレビは「子ども」でも理解可能である。識字能力は必要ではない。テレビは「活版印刷」や「活字」が子どもから隠してきた「秘密」を明らかにしてしまう。例えば性、例えば暴力。それにより、もはや「子どもはもういない」といわざるを得なくなってきているのだ。

 高橋勝は『文化変容の中の子ども』の中で「子どもの消滅」についてを説明している。それは子どもが「消費者」として大人扱いされるという点からの説明であった。ポストマンは「メディア」の変遷により、子どもが誕生し、消滅しているのだと説明をしているのである。

 ここで、私の問題意識を提示しておく。子どもの誕生―消滅を「メディア」の変遷によりポストマンは説明した。いま、メディアの世界の主力はインターネットである。ポストマンはこの状況を見てどう思うであろうか?

 当初、インターネットは文字文化の復興をもたらしたように思われた。掲示板の書き込みも、企業のウェブサイトでも、大体は文字情報のみに寄っていた。現在、ニコニコ動画やYou tubeなど、ネット世界は「動画」が重視される時代に入った。インターネットがもたらした効果も、文字中心の時代と動画中心の時代とに分けて、考えることはできないだろうか? また、手軽にインターネットの「メール」ができるようにした「携帯」登場以後について、彼はどういう説明をするだろうか? 気になるところである。

上野圭一・辻信一『スローメディスン』(大月書店)

 前の日曜日、高田馬場で『スローメディスン』の出版記念シンポジウムが行われた。出版記念のシンポジウムに行くのは、初めてである。作者2人の話の中に、著作の裏話が現れる。本を作る過程が見えて、なかなか面白かった。

 スローメディスンとは、要は「オルタナティブ医療」(代替医療)ということ。あるいは「ホリスティック医療」ということである。西洋医学だけでなく、針やお灸・漢方などの東洋医学も復興すべきだ、また気功・スピリチュアル的治療も認めていこう、という内容である。

 オルタナティブという言葉を聞くと、私の血が騒ぐ。私の専門のオルタナティブ教育を思い起こすためである。話を聞けば聴くほど、私の専門分野との共通点が浮かび上がってきた。

 オルタナティブ医療もオルタナティブ教育も、メインストリームに対するものとして立ち現れてきた。オルタナティブ医療の方は西洋医学、オルタナティブ教育の方は「学校」教育。西洋医学も「学校」教育も、「それ以外は駄目」という圧力のもとに「それ以外のもの」を否定してきた。例えば針灸、例えばフリースクール。「切り捨て」をしてきたわけである。

 けれど、原点に帰らなければならない。医療は人の治療をすることが目的だ。その目的を達成するためなら、西洋医療以外を使ってもいいではないか。同様に、真に子どものためになるのなら学校以外で教育を行ってもいいではないか。

 シンポジウムの質疑応答の際、疑問を感じた点がある。代替医療を押し進めたとき、例えば「手かざしで病を治します、その費用は100万円です」ということを主張するカルト宗教への対応である。講師2人の意見は、そこで割れた。

 辻信一は「手かざし、つまり気功で病を治す人々はいる。だからそういう人々を排除することがあってはならない」と語った。一理ある。本当に手かざしで治療できる人が現にいるからだ。問題はそんな能力がないにも関わらず「手かざしで治す」と言い張るカルトをどうするか、という点だ。けれど辻はその可能性を言及していなかった。辻に違和感を感じる。

 上野圭一は「宗教的行為と治療行為は分けなければならない」と語る。そして、純粋な治療行為に対しては「代替医療」と認めていくべきだと主張した。宗教的な部分については代替医療と認めない方が良いと指摘する。その際、治療行為の費用が他と比較して正当な金額かを考えていく必要があると語った。「同業者団体が自然発生的に作られ、その内部規定が出来ていく必要がありますね」とまとめていた。つまり、「このような治療(手かざし等)には、これくらいの金額にしましょう」という内部規定だ。この上野の説明には納得できた。

 辻・上野両氏の話を聴いていて、次のようなケースを思いついた。成功率10%の手術(つまり西洋医療)に100万を出す人は、成功率10%の「手かざし療法」(オルタナティブ医療)に100万を出すかどうか。成功率ではどちらも同じだ。けれど、手かざしに100万を出すのは「インチキではないか」との疑惑がどうしても残る。何故、私はこう感じてしまうのか、よく理由が分からない。

 辻と上野の見解の相違は、オルタナティブ教育を考える際にも有効である。いま、「学校」教育以外のオルタナティブ教育を、「学校」同様に認めていく方向に政策が変わったとする。その結果、ヤマギシ会やオウムが作ったような胡散臭い教育機関も認めていく方向になったとする。戸塚ヨットスクールも当然「学校」同様に認められるだろう。そうなることは本当に良いことなのか? 「何でもあり」という状況が現れることは、本当に子どもの教育に役立つのだろうか。

 教育機関が「何でもあり」になるとき、上野が語る「同業者団体」の存在価値が高まってくるように思える。子どもや保護者が教育機関を選択する際の指標とすることができるからだ。上野のいう「同業者団体」として、いまフリースクールは「フリースクール全国ネットワーク」という組織をもっている(厳密には、他に「日本フリースクール協会」と「日本オルタナティブスクール協会」がある)。この組織に入るには「子ども中心の学び」を行っているか否かなど、細かな点のチェックが行われている。教育機関を自由に選択できるようになったとき、同業者団体の存在が、選択に安心感を与えるであろう。同業者団体に必ず所属しなければならない、ということはない(それはイリッチでいう「価値の制度化」にあたる)。選択する人がいる限り、同業者とは全く違う教育理念を持つ教育機関はいくらでもあっていい(一部の人に有効という観点から、私は戸塚ヨットスクールにも一定の評価を与えている)。

 

追記

「職業的な医者への依存の構造が、私たち一人ひとりの心のなかにできあがってしまった。子どもが熱を出したら、自分で手を打つことなしに近くの病院に駆けこむ。昭和30年代までは、病院出産と自宅出産が半々だったのが、それを境いにだんだん病院化してくる」(111頁、上野の発言)とあった。

 この文を読んでいて、イリッチの『脱病院化社会』という本を思い出した。未読なので、読んでみたい。そう思うのである。

追記2

 オルタナティブ教育も、ただ「フリースクール性」を担保するよりも、「何でもあり」で「自分が自分で学ぶ」「自分を教育する」自発性の視点を失ってはいけない、ということだろうか。こういったフリースクールの「フリースクール性」についての考察を行っていくことが必要である。

 

追記3

 上野・辻の話を聞き、代替医療やオルタナティブ教育の「基準を立てる」というよりも、代替医療やオルタナティブ教育全般を認めていき、それぞれが自発的に同業者団体をつくっていくことが必要である、ということを学んだ。

鳥山敏子『居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる』(岩波現代文庫、2008

 著者は30年間学校の教師をした後、「東京賢治の学校」をつくる。現在は子どもを対象にシュタイナー教育を行っている場所だ。

 執筆した当時、鳥山氏は「うまく育てなかった」大人を対象に「ワーク」とよばれるケアを行っていた。「ワーク」は、その人の心理の根底にある、不安な出来事・辛かった出来事などをその場で「演じて」見ることで、「うまく育てなかった」部分を乗り越えていくという実践だ。

 「どうしても子どもを抱きしめることができないんです」という母親。鳥山氏が「ワーク」を行ったとき、その母親自身が親から愛情を注がれることがなかった・抱きしめられることがなかったことを思い起こす。親にいいたかった思いを、「ワーク」の中で伝える母親。それを見ていた母親の子どもが涙を流して母親の元に抱きついてくる。「ごめんね」と母親も子どもを抱き返す。本書は鳥山氏が出会ってきた多くの家族が「再生」するという、感動的なエピソードに彩られている。

 印象的なのは次の部分だ。

新聞や雑誌には、「学校へ行けない子どもに決して強要してはならない。学校へ行けない場合には、無理やりに学校に連れていってはいけない」とありました。本当に今も、いろいろな本とかカウンセラーたちが、閉じこもっている子を無理やり外に出してはいけないとか、学校へ連れていってはいけないとかいうようにいっています。そして、今も、そういう考えが主流を占めています。困ったことに、これらの忠告や知識は母親が自分の子にていねいにふれて感じながら二人の関係をつくり上げることをストップさせます。(p72

 「自分の子どもが不登校になった。教育雑誌やネットを見る限り、そっとしておいてあげることが大事だろうな…」。著者の鳥山氏はこういう親の態度に批判的だ。子どもと向き合っていないからである。ひょっとしたら、学校を休むことを通して、「もっと私に関わってほしい」というメッセージを子どもが発しているかもしれないではないか、と。

 私の専門はフリースクールである。日本的文脈において、フリースクールは「不登校の子がいく所」という認識になっている。子どもが不登校になった時、「とりあえずフリースクールに行かせればいいかな」と安易に親が考えるようでは駄目なんだな、と本書を読んで感じた。

 フリースクールの活動はそれ自体は子どもの学習権の保障や、「子ども中心の教育を行う」という意味合いで重要な実践である。けれど、だからといって「わが子が不登校になったら、フリースクールにすべてお任せ」ということがあっては子どもが不幸になる。フリースクールがあるからと言って、親が子どもに関わることを避けていいわけではない。新聞やテレビなどで専門家のいう言葉を鵜呑みにして、子どもと関わることを放棄しては本末転倒なのである。自分で考えて、自分から向き合っていくことを忘れてはならない。

 「フリースクールに行かせれば何とかなる」という判断は、あくまで子どもと向き合った上で行うべきなのだ。そうでなければ、イリッチの言う「価値の制度化」が起きてしまう。

 親として、子どもと向き合うことから逃れてはいけない。そういう強烈な主張を受け取った。

 …けれど、この本は人々を不安に陥れる恐ろしい本でもある。一見、うまく行っている家庭であっても、親の「うまく育つことができなかった」点のために家族が崩壊していることがある、という事例を多く提示するからだ。家庭の様子は外と比べることが少ないだけに、問題はなかなか表面化しない。

 昔の映画に『家族ゲーム』があった。名優・松田優作の遺作である。奇妙な性癖を持つ家族の日常を描いた映画だ。その家では、細長い机に横一列になって座 り、食事をする。飛び回るヘリコプターの騒音のBGMが、どことなく不安定な一家の姿を暗示している。けれど、この家族の中ではこれが当たり前の姿なの だ。

 『家族ゲーム』を奇妙と言えるのは、この家族の外部に自分がいるからだ。『家族ゲーム』の中の家族にとっては、これが当たり前の姿。何の疑問も提示されない。自分が育ってきた家庭環境は、外部から見ると映画同様に奇妙に映っているのかもしれない。

 『居場所のない子どもたち』を読みながら、「自分は大丈夫なのか?」「きちんと育つことができたのか?」、と何度も不安に感じる。だって、『家族ゲーム』の奇妙さは、外部の人間にしか分からないのだから。自分の育ってきた環境は、外部から見ると「奇妙」としか言いようがないことがあるのだ。それゆえ、不安に駆られる。

 読み終えたときには、「人間がきちんと育つことなんて、本当にあるのだろうか? この著者は不安をあおっているだけではないのか?」と強烈に感じる本である。

映画『マトリックス』(1999年)

 表面上は1999年の社会。けれどそれは機械が人間に見せている虚構の現実であった…。主人公・ネオはモーフィアスの助けでその事実に気づく。機械用の生体熱エネルギーを得るために、人間が「栽培」される世界。これが「現実」の世界だったのだ。ネオのことを「救世主」と信じる仲間と共に、ネオは機械への戦いを開始する。こんなストーリーの本作、多くの方はもう見ておられるのではないだろうか?

この映画は社会学者・ボードリヤールの理論を基にして作られた。それだけに、非常に哲学的かつ学問的内容の示唆が多い映画である。見ていて、非常に勉強になった。少なくとも、あと2回くらいは観ると思う(ツタヤはそれまで待ってくれないが…)。

 箴言として残しておきたい文章も多い。「入り口までは案内した。扉は自分で開け」・「救世主であることは恋愛と同じ。それは自分でしか分からない」・「道を知ることと実際に生きることは違う」。

 特に気に入ったのは「マトリックスの正体は人から教えられるものではない。自分で見るものだ」との台詞。教育学に通じるものがある。思想家・イリッチは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」現象を批判した。教えられるのでなく、「自分で見る」こと・自分で「学ぶ」ことの大事さを語っているように思う。

 もう一つあげるなら、「人生は自分で決めるもの」という言葉であろう。ネオも「予言者」も語ったこの言葉は、本作のキーフレーズである。本作ではネオは何度も選択を迫られる。真実を知るか否かも、ネオが自分で決めたことなのだ。

 本作のテーマは、機械に〈生かされる〉社会から、人間が〈生きる〉社会への転換の必要性についてである。真実を見つめず、〈生かされる〉生き方をするほうが容易である。けれどそれは人間の本来生きるべき道ではない。たとえ困難であったとしても、人間として〈生きる〉生き方をこそ選ぶべきなのだ。そのためには行動しなければならない。どんなにキツイ戦いになったとしても。真実を知ることには、行動する義務が付きまとうのだ。

 けれど、真実を知ることは辛い。途中でやっていられなくなる。ネオ達を裏切ることになるサイファーがいい例だ。寒くて食事も不味く、楽しいこともない現実社会を生きるくらいなら、仮想現実の作り出す夢の世界を生きればいいじゃないか。そして彼は「無知は幸福」と言ってのける。

 たとえそうであったとしても、現実から逃げないで戦い続けるべきことをネオ達は示している。宮台真司の著書に『終わりなき日常を生きろ』がある。現在は輝ける未来もなく、かといって世界の終焉もなく(ハルマゲドンは存在しない)、いまと同じ日常が延々と続く時代である。けれど、そうであったとしても生き続けなければならない、と主張する本だ。

 『マトリックス』の世界は、宮台の言っているような社会であるように思う。現実社会はキツくて辛い社会である。仮想現実の夢に戻りたくなるけれど、それでもネオ達は生き続けなければならない。

 現実が暗くてキツくてショボいなら、仮想現実の夢を見たくなる。あるいは現実から逃避(引きこもり、自殺など)したくなる。それであっても、生きなければならない。そんな現代の困難さを実感した映画であった。

クリステン・コル『コルの「子どもの学校論」』(新評論、2007年)

 デンマークの教育を、草の根から変革した人間、それがコルであった。19世紀に師匠・グルントヴィの教育思想を実践した人物だ。教育論者ではなく、教育者である。ヒラ教員の立場からでも一国の教育変革が可能であることを、コルは教えてくれる。

 本書はコルの残した数少ない書物のひとつ「子どもの学校論」の翻訳である。本書に通底するテーマ、それは「そもそも学校では何を行うべきか?」である。

 19世紀のデンマーク(あるいは現在21世紀の日本でもよい)では「死んだ」知識が重視されていた。読み書き計算(教育学者は気取って3R'sと呼ぶ)の習得が「目的」となっていた。無理やり読み書き計算を教えられることに、本当に意味があるのか? コルは考える。

書くことを教えるなら、子どもが「書きたい」と思うまで待つべきではないか? 筆算の仕方を教える前に、〈数とは、一体どんなものなのか〉子どもが分かるよう、身の回りから数について考えられるようにしたほうがいいのではないか? 本来ドラマティックな聖書の物語を、「細かい章にブツ切りにされ、小さな宿題を通して暗記」(153頁)させられるなんて、無意味ではないか?などと。

 それゆえ、コルは読み書き計算を無理やりに教え込もうとする現状に「No!」を叫んだ。教育現場における口頭による関わり合いを重視したのだ。コルは人間が語る「生きた言葉」による、対話の重要性を訴えた。清水満は本書の「解説」で次のように語る。

書かれた文字による教育が、すでにその文字を知り、多くの文献を知る識者が上から一方的にそれを教え込む上下の関係であるのに対して、「生きた言葉」による「対話」にはそのような専制的な関係が生じない。また、とりわけ教育の対象となる青少年たちは想像力と感性の豊かさに富んでいる時期であるから、理性的な文字よりも生きた言葉の音調、つまり耳の言葉で想像力を活性化させるにふさわしい存在となる。(200頁)

 コルが偉大であるのは、実践者であった点だ。自分でフリースコーレ(本書の清水満訳では「フリースクール」となるが、日本に存在する「フリースクール」とごっちゃになることを危惧し、ほかの訳者が使った「フリースコーレ」の語を使用した)を建設し、自分で運営をする。そこで育った子どもたちも、のちにフリースコーレを各地に作る。そしていまでは全デンマークに普及したのである。

宮台真司『14歳からの社会学』

 いま私は宮台に夢中である。

 宮台の著書『14歳からの社会学』に、「承認」論が描かれている。社会から、他者から認められ、「自分はこれでOKなのだ」という「尊厳」を得るためには(ちょうどエヴァのシンジのように)、何が必要か?

 宮台は「試行錯誤」を行うことが必要、と語る。

《他者たちを前にした「試行錯誤」で少しずつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の感覚をあたえてくれる》(32頁)

 これは面倒くさいことだ。けれどこれをせずに歳をとってしまうと、「死んだときに誰も悲しんでくれる人がいない」という悲劇を味わうこととなる。「承認」され「尊厳」を得る努力を怠ると、不幸になってしまうのだ。

 それゆえ宮台は〈幸せになりたいなら、勉強だけしていればいいわけじゃない〉と本書で伝えているのだ。もはや勉強だけ出来れば幸せになれる時代は終わったのだ。

 『14歳からの〜』を読み、私の物の見方が180度変わった。パラダイム転換とでも呼ぶべきか。大学でろくに勉強をしない人間を無意識下でバカにしてい た自分の方が、実はバカであったことに気づいたのだ。勉強をしていると、いまの社会では褒められ、評価される。けれど、その評価は未来に渡ってのものでは ない。現体制で褒められる言動が、これからの社会でも同じ評価を受けるわけではないのだ。いまの社会では勉強だけすることに評価が与えられる。けれど宮台 のいう新たな社会では、勉強よりも他者から「承認」される能力・技術が必要となる。「大学でろくに勉強をしない人間」は、実は来るべき社会の「勝者」とな る可能性を秘めているかもしれないのだ。「パラダイム転換」と私が言ったのはこの点だ。

 勉強だけやるのはもうやめよう。寺山修司ではないが、『書を捨てよ町へ出よう』だ。

追記

 宮台はこれからの社会の「勝ち組」像を語る。その人物は、他者とコミュニケーションを自在に行うことができ、自分の示すビジョンの実現のために多くの人々を動員し、実現できる者である。

 コミュニケーション能力こそが、必要となるのだ。

 外に出て、人に会うのだ、石田よ! 

 誰かが「人生において重要なこと」として言っていた。「本を読め、人に会え、旅に出よ」と。私はこれに「映画を観ろ」を追加したい。

 さて。今日も人と会って深い対話をし、「承認」を得られるように努力していきたい。

映画『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』

 今日起きると、14時になっていた。寝たのは4時である。長く寝たものだ。昼過ぎに起きたとき、快晴であるととても損した気分になる。けれど、今日は雨。ザーザー降っていると、「まあいいか」と開き直ってしまう。うーん、ダメ大学生・石田一。何とか直したいものだ。

 寝坊した日は、何か価値的なことをしたくなる。本を読了するとか、演劇を見るとか。大体はツタヤや映画館で映画を観る。今日は早稲田松竹にいった。映画は未来の自分への蓄積となる。一度見た映画は何となく覚えているからだ。将来、教育学についてものを書くときも「昔、こんな映画を見た。このシーンは教育学で言う……という現象を示しているように思える」と書くことができる。未来の自分への「遺産」となるからこそ、寝坊したときは将来の蓄積をしたくなるのだ。

 さて、早稲田松竹18時上映開始の本作の原題は、邦題より少し長くなる。「My big fat Greek wedding」。「ギリシャの」という説明が追加される。何故邦題から「Greek」が消えたかは分からない。

 本作はアメリカにおける、マイノリティーとしてのギリシャ人コミュニティーを描く。アメリカに移民していても、ギリシャ人の誇りは常に忘れない。通常の学校とは別にギリシャ語学校に通わせる両親の姿が描かれる。多文化社会を考える上で非常に興味深い映画だ。特に印象的なのは結婚式のシーン。ギリシャでは悪魔払いのおまじないとして、人にツバを吐きかける。結婚式場でも、入場してくる新婦に対しそれを行う親戚たち。新郎の両親は眉をしかめる。説明されると分かるだろうが、されない限り「一体なんなんだ!」と思ってしまう。異文化理解の難しさを感じた。

 主人公はギリシャ料理店の「婚期を逃し」そうな娘。この枠組みは小津監督の『秋刀魚の味』にもあった(中華料理店の主人と彼の「行き遅れた」娘が描かれている)。眼鏡でダサい服を着る彼女が、大学講師に恋をする。「自分を変えたい」。その思いから大学に行き、コンピュータを学び始める。その技術を使って「オリンピア旅行代理店」(本当にギリシャ人コミュニティを象徴するような名前だ)という親戚の会社で働くこととなる。偶然、憧れの講師が店に来て、双方恋に落ちる。映画の後半は結婚準備に追われる新郎・新婦とその一族の姿が描かれている。結婚準備中、新婦一族のやかましいギリシャ文化と、新郎側の静かな生活との対比が描かれる。衝突が何度も起こり、その度結婚の可能性が低くなるように映る。果たして2人は無事結婚式を迎えられるのだろうか? 

 映画の本筋とはあまり関係ないが、教育学者を志す私としては本作に“教育による輝き”が描かれているように感じた。主人公は大学に行き、新たな自分を作っていった(「自分探し」という言葉が嫌いなのでこう書いた)。大学で学び始めることで、親の言いなりの〈か弱い娘〉から、自分の運命を自分で切り開く〈自立した女性〉に変わっていった。『人形の家』のノラと同じだ(ところで彼女は何故突然自立したんだっけ?)。“教育による輝き”に有効性があった、ということを久々に実感した。

 女30、未婚で子無し。日本ではこの人々のことを「負け犬」と呼ぶことがある。たとえ「負け犬」ではあっても、大学で学ぶことで人生を変えることは可能であるのだ(それにしては〈大学でコンピュータを学ぶことで新たな仕事に就く〉というベタな展開である)。

 適当に学びにいける場所としての大学。敷居が高くない大学。これからの余暇時代・高齢化社会ではこの映画のような「手軽に行ける大学」が重要になってくるように思われる。実際、主人公の弟も大学でアートを学び画家を目指すシーンがある。

 学びとは新たな自分になること。生き方を変えること。教育に対して肯定的評価を下している映画であった。

佐藤公治『認知心理学からみた読みの世界』(北大路書房、1999

 学びとは、個人的な営みなのだろうか? 私は最近、それを考えている。結論的には「個人的な営みだ」と考える。しかし、本書では「集団の営みだ」と主張されている。

 あとがきから見てみよう。 

本書では、学習者の主体的な理解活動や知識構成の過程に焦点をあてながら、同時に学習はまさに社会的な過程であるという社会的構成主義の立場から、個々人の理解や知識が、いかに対話と社会的相互作用のなかでその影響を受けながら形成されるかを明らかにしていくことがめざされた。いまなぜ、対話や協同的な学びなのかということは、本書のなかで述べたことなので繰り返さないが、学校教育のなかで学びがともすると個人の自立を強調して、自分の力だけで学びを完遂していくこと、そのための能力の育成といったことに目標がおかれがちであることに対して、学びというものは本来、個人の閉じた系ではなく、もっと他者との相互交流、相互の支え合いのなかで行われる開かれた系としてとらえ直していくことが必要なのである。(240頁)

 このことが、「本書で私が読者の皆さんに伝えたいメッセージであ」ると述べられている。

 確かに学びは集団の営みである点であることは否めない。しかし、近代社会において個人が所属する集団は年々変化する。ずっと同じ学校の同じメンバーで学びを進めるわけでないのだ。集団による学びは基本的には一期一会。教室の中でずっと続くようでも、数年したら全く違うメンツと関わるようになる。会社内でも部署移動はしょっちゅうだ。そのように、集団による学びは構成メンバーが常に変化する。

 とすれば、重要なのは「一人で学べる」力ではないか。特定の人がいるから学ぶ、というのでは常に学び続けることは出来ない。現代の社会においては、いつリストラされるか、いつ別の業種を行うことになるか、だれも予想できない。そんな時代では、必要な時に必要な能力を身につける/学ぶ力が必要不可欠だ。「一人で学べる」力がないと生活できなくなることもあるのだ。

 おまけに、「みなで学ぼう」とすると、無責任になってしまう。

 そのため、集団的学びの重要性は非常に良く分かるが、結局「一人で学べる」力を身につけないと後々困ることになるのは事実だろう。「一人で学べる」力がないと、イリイチのいう「制度」に依存した人間になってしまう。いまも、ユーキャンなどの通信教育が流行ってますよね? 本当はそんなサービスに頼らなくても、自分で学べるのが本当の人間のはずである。

 「一人で学べる」(「一人立つ」とも言えるか?)人びとが集まったとき、集団的学びがさらに発展するであろう。

第3章

小説

誰かへの手紙

 西早稲田のアパートに一人暮らしを始めて、もう4年になる。6畳の空間に、私の身体もすっかり適合してきた。すっかり「自分の城だ」といえるようになってきた。

 最近、クローゼット内のスーツを出そうとしていると、天井部分に隙間があることに気づく。携帯電話ディスプレーの明かりで照らしてみると、なにやら天井を構成するパネルが外れるようであった。

 興味を持った私は、引き出しからLED式の懐中電灯を取り出し、パネルをどけ、天井裏を見てみた。埃や昆虫の死骸の間に、1枚の茶封筒がある。

 埃を吹き払いつつ茶封筒の中を見ると、この部屋のかつての住人が書いたのであろうか、数葉の便箋が入っていた。再び封筒に目をやると、9年前の干支がついた「お年玉つき年賀はがき」の景品切手が貼られている。宛名は書かれていない。

 以下は便箋の全文である。

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前略

 俺はこの手紙を出すのかもしれないし、出さないのかもしれない。まあ、届いたならば気休めに読んでもらいたい。君とは長い付き合いだし。

 俺は最近ずっと、「人間とは分かり合えるものなのだろうか」ということを考え続けている。サークル内での話し合いや人間関係が面倒くさすぎるのだ。何故かまわりと理解しあえない。

 知ってると思うけれど、自分は人間関係を構築するのが得意ではない。周りが笑っていて、自分だけが笑っていないとき、どうしようもなくつらい思いがする。

 他者は常に謎として現れる。どんなに理解したと思っても、他者は謎なままだ。「理解した」といっても程度の問題。

 こんなことを書くと、「あなたは不幸な人ですね」といわれるであろう。けれど、それが私の実感だ。 

 前に無性につらいときがあってね。誰かが自分に言った一言が、心の中で何度も響き続けるんだ。歩いていても、自転車に乗っていても、耳の奥で何度も再生されている。自分が今までやってきたことは、全部ムダだったのかな、って思えてきたのよ。

 急いで家に帰り、思わず流しにあった包丁を手に取ったんだ。そしてその包丁の刃先を左手首に押し当て、手前に引いた。包丁、全然研いでなかったからね、ほら、手に輪ゴムを巻いておくと白い後が残るじゃない? あんな感じに手首に白い筋が残ったんだわ。血も何も出ない代わりにね。じっと見ているとその線はゆっくりと消えていった。それを見ているとね、なんと言うのかな、ものすごく泣き叫びたくなったんだわ。ひざを抱えるようにして、そのままカーペットに横になったよ。泣き叫ぶなんて、どれくらいぶりだろうね。しばらく泣き続けていた。

 こんな日に限って、人と会う約束があったんだ。少し落ち着いた後は椅子に座り、ボーっとしていた。涙も乾いた頃、待ち合わせ場所である早稲田駅に向かう。最悪の状態でも、人と話すのっていいもんだね、自分の実存的な寂しさが、人と話している間は忘れてしまえたよ。

 最近、けっこうバイトやなんかを多く入れている。暇な状態でいるのが怖いんだ。忙しくしている間は、自分のことを考えないですむ。それに、何かやっていると少なくとも世の中の役に立っているような気がしてくる。

 今日ツタヤに行ってきて、さだまさしのCDを借りてきた。さだまさしって、けっこういい歌を歌ってるんだよ。思わず何度も聞いてしまったのは「普通の人々」という歌。多分、知らないだろうけどね。

「退屈と言える程 幸せじゃないけれど

 不幸だと嘆く程 暇もない毎日」

 この歌詞、非常に刺さってくるんだわ。暇がありすぎると、自分の孤独や不幸さと向き合ってしまう。多くの人、つまり「普通の人々」は忙しさを武器にこれらと向き合わないようにしているんじゃないか、と思う。でも、さだはこの歌の中で、こういう「普通の人々」の行動では本質的な解決にはならないことを伝えようとしているんだ。

 いま、「孤独死」が増えているって、知っている? マンションとかで一人で誰にも看取られずに死ぬこと。お年寄りだけが対象だと思っていたけど、そうじゃないみたいだね。ものの本によると、孤独死しているのは45から60くらいの男性が多いみたい。奥さんに離婚された後、生きている気力がなくなり、そんなタイミングで病いにかかってしまう。それくらい、「孤独」ってこわいことみたいだね。

 だから仕事で寂しさを紛らわしていることって、なにかの機会で孤独死してしまう可能性があるよね。

 先日、大学1年生のときの友人と会ったよ。俺の酒の量が増えているといっていた。「昔はビールでも赤くなっていたのに、ウイスキーのロックを普通に飲んでいる」とね。そういえば寂しさに任せて、家でけっこう飲むようになっていたな。なんとかしないと、自分も孤独死することになりそうなんだ。アル中で死ぬ人もいるしね。

 さだの「普通の人々」は、次の歌詞で締めくくられてるんだ。

何も気にする事なんかない なのに何か不安で

 No Message

 寂しいと言える程 幸せじゃないけれど

 不幸だと嘆く程 孤独でもない

 生きる為の方法は 駅の数程あるんだから

 生きる為の方法は 人の数だけあるんだから

 さだの音楽を聴いていて、自分の「生きる為の方法」を探すしかない、と思うんだよね。なかなか、難しいことだけれど。

 ちょっと前の話だけど、イベントのビラをもらった際、「閉塞感のある世の中で、自由に生きる」というフレーズが載っていた。俺の実感と非常にあっているような気がした。 

 中世や前期近代と違い、僕らが生きている近代成熟期、いわゆるポストモダンの時代は「こうすれば生きていける」「こうやれば幸せになれる」という図式が完全になくなっている。何をやってもいい、だけれどもそれで自分が幸せかは別問題。それでいて、まだ社会には前期近代の考え方が残っていて、「そんな生き方、許されると思っているのか」といわれることもかなり多い。「閉塞感のある世の中で、自由に生きる」ことが、まだまだ難しい。でも、将来的にはそういう生き方をするほうが幸せになれる気がする。

 元の話に戻るけれど、どうせ人間は分かり合えない。それは否定しようのない事実だと思うんだ。けれど、そこで諦めるんじゃなくて、それを乗り越える方法が必要なんだろうね。その方法、俺にはあんまりよくわからないけど。

 いまカーテンを空け、空を見上げてる。隣のアパートの上方には相変わらずの、青い空。秋の澄んだ空に小さな雲が浮かんでいるのを見ると、どことなく壮大な思いがしてくる。

 人間なんて小さな存在だ。話して分かり合えるとか、分かり合えないとか、どうでもいいことのように思えてきた。別に分かり合えなくても、人間どうし、共生することは可能なのではないかと思った。

 こんな駄文を最後まで読んでくれて嬉しいよ。ありがとう。特に伝えたいメッセージがあったわけでもないのに、ごめんね。

                           加山

 平成14112

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 手紙の全文をノートパソコンで打ち込むのは面倒であったが、ようやく終わった。加山さんは几帳面な小さな文字で、便箋を埋めていた。私には趣旨の理解できないところもあったが(私はさだをほとんど聴かない)、なぜかしら打っているうちに涙が出てきた。

 加山さんという人は、なぜこんな手紙を書いたのだろうか。封筒に宛名を書かなかったところを見ると、本当は誰かに出すためではなく、自分自身のために書いたのではないだろうか。

 書くことは、しばしば人を救済する。自分自身が自分自身の状況を踏まえた文章を書くことで、問題が解決することがある。ゲーテは自殺しそうなくらい、恋愛で思い悩んだ。小説の主人公に自殺させることで、ゲーテ自身は生き残ることができたのだ。きっと加山さんは自分だけのために、自分が自分のことを整理するためだけにこの手紙を書いたのだ。

 レヴィナスは<時間とは、自分が他者になるプロセス>だといった。過去の自分はいまの自分とは違う。時間が経てば経つほど、自分は他人に近づいていく。物を書くという行為は、未来の自分という「他者」に宛てて書く手紙である。

 映画『ライムライト』において、チャップリンは語る。「時間は最高の芸術家だ。いつも完璧な結論を書く」。小学生のとき観た時はわからなかった言葉だが、いまならば意味がよく理解できる。

 早まった行動をするくらいなら(加山さんは手首を切ろうとしている)、「解決は将来に任せた」と判断留保をするという行動が必要なのではないだろうか。

 大家さんに、自分の前にアパートの201号室を使っていた人のことを尋ねてみた。必ず月末に家賃を納めていて、家にいることが多かった人のようだ。なにやら人間関係で苦しんでいたらしい加山さんは、ずいぶんと真面目な人であったのだ。余談だが、この部屋に入りたての頃、日本経済新聞の集金の人がやってきて危うくお金を払わされそうになったことを思い出す。

 自分に手に入る加山さんの情報はこれが全部だ。アパートの隣の人も、自分が201に入ってから2度代わった。もう誰もアパートのあたりで加山さんを知る人はいない。自分もあと数年後、きっとそうなる。大宅さんにも隣の人にも、それほど話をしていない。

 誰も自分の存在を知らなくなった後、将来「ここが自分のアパートだ」と指差したとしても、誰がそれを証明できるのであろう。「私」の絶対性は時の経過とともに薄れていく。いまからそれが怖い。

 人間関係に否定的な加山さんと私とは、かなり価値観が一致している。けれど一つだけ異なる点がある。私は対話による救済を信じているが、加山さんはその道を否定し、自己自らの力だけでの救済を願っているのである。「他人に頼ったら負けだ」との思いが感じられる。

 思うのであるが、加山さんはこの手紙を「君」といっている人に出すべきだったのだ。自己の状況を誰かに伝えた時点で、何らかの解決の糸口が見つかったはずなのだ。それを自分だけで解決しようとしたのが、加山さんの(言いすぎかもしれないが)失敗といえるだろう。

 「どうせ誰もわかってくれない」。そうやって、他者を軽視し、他者へ伝えることを諦めた時点で、加山さんは苦しむ運命にあったのだろう。

 以上が私の推理ではあるが、この手紙の主である加山さんと一度会って話をしてみたいと思っている。会ったからどうなるわけでもないが、ひょっとすると加山さんの救いになるかもしれないと思うのである。

 自分が加山さんの状況に陥ったら、どうするであろうか。「君」へ手紙を書き、それを屋根裏に隠すだろうか。書き終えてしまうと、こんな手紙、手元においておくのがつらくなる。茶封筒の色が視野に入るたびに、嫌な記憶が呼び戻される。それに、部屋においておくと誰かが勝手に見てしまうかもしれない。やはり保存するなら屋根裏になってしまう。

 それでも自分なら、「君」に可能性を託して手紙を送るだろう。

おわりに

 思えば昨年の3月にも、こんな感じの本を作った。大学1〜3年の間に書いた文章からセレクトしたものを一つにまとめて(『高校生に語るポストモダン』)。

 セレクト作業は非常に楽しいものだった。忘れ去りし記憶が蘇ってくる。それにしても、私は一年の間に心理的なアップ・ダウンを多く経験したものだ。プラス思考の文体の後に、ネガティブ思考の文体が出てくる。しかしそれも含めて「私」なのだ。

 編集作業をして発見したこと一、それは追記という発想だ。

 私はブログにものを書いたあと、「やっぱり書き加えたい」衝動に駆られることがある。余力があれば本文に書き加えるが、それがない時は「追記」というかたちで本文の後に文を加える。そうすると、文字通り過去の自分と「対話」をしている気がしてくる。間違いなく、「いま」書き加える自分の方が「賢く」なっていることを実感するのだ。

 編集作業で発見したことその二、文章の配置の意味。

 こんな本を作っていると、本をまとめるときにどんな順番で文章を配置するかということ自体に意味があることが解ってくる。間違っても、適当には置かれていないのだ。そういった「本にまとめること」の難しさを『学校的日常の彼方へ』を編んでいて実感した。

 編集作業で発見したことその三、過去の自分は今の自分とは別人、すなわち「石田一」に他ならないということ。これについては、かつて書いた「石田一とは、誰だ?」を引用して示したい。

石田一というペンネームを用いて、私はずっとブログを書いてきた。私が「石田一」を名乗るわけであるから、「石田一」イコール「私」であるはず。けれど、読み直すとブログにいるのは「私」ではなく「過去の私」しかいないことに気づく。「あれ、俺こんなこと書いたっけ?」。ずっと昔の記述とほぼ同様のものが書かれていることがあるのはそのためだ。「過去の私」の別名が石田一である。

内田樹(本当によくこのブログに最近登場するなあ)はこう言う。自身のブログ〈内田樹の研究室〉の著者は「ヴァーチャル内田」である、と。「ヴァ―チャル内田」はホンモノの内田樹よりも人間性の高い人物である、という。

このブログを書いている瞬間の「私」はまぎれもなく「私」である。この時において石田一は「私」をさすのだ。けれど、ブログに投稿後、ネット画面を確認して読んでいるとき、もはやその文章は「石田一」の文責となる。一瞬間後の「私」は「石田一」にほかならず、「私」ではないのだ。

私がこのブログを読むとき(特に2年ほど前の記述を)、石田一という人物と対話をしている感覚になる。

 本書と前回の『高ポス』との最大の違いは、イラストの有無である。快く高田馬場駅前ガストにて絵を描いてくれた見栄春代君、ありがとう。一枚の絵は、私の駄文の山以上に雄弁である。それを実感している。

 最後に私の(下手な)短歌を紹介して、本書を終りたい。

わが記憶 永遠なれと 思いこめ 過ぎ去りし日々は のちの思いに。

著者経歴

石田一(いしだ・はじめ)1988年、兵庫県うまれ。本名:藤本研一。

早稲田大学教育学部4年生。20104月より早稲田大学大学院教育学研究科修士課程進学予定。教育社会学者を志望。

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初出一覧

石田一のブログ(http://zaggas379.blogspot.com/)。

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2010316日 第1版第1刷発行

著作集・『学校的日常の彼方へ』

著者  藤本研一

発行者 藤本研一

絵 見栄春代

発行所 学校法人 早稲田大学 22号館1階 併設プリンター

印刷・給紙人 藤本研一

製本社 藤本研一

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表紙イラスト

タイトル:『孤空』

作:見栄春代